後醍醐天皇の大内裏造営計画(だいだいりぞうえいけいかく)とは?
後醍醐天皇は建武の親政の象徴として大内裏(だいだいり)の再建を計画します。なぜ大内裏造営計画(だいだいりぞうえいけいかく)が必要だったのでしょうか?
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内裏、朝堂院、役所などで構成される区域全体を大内裏(だいだいり)と呼んでいます。大内裏は長い歴史の中で焼失と再建が繰り返されてきました。
1219年順徳天皇の時代に大内裏は焼失しました。後堀河天皇は再建を計画しますがその途中で再び焼失します。以後は資金難などの理由から再建されることはなく、天皇は里内裏(さとだいり)と呼ばれる仮の御所に住んでいました。
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、天皇親政の象徴として大内裏の再建を計画します。大内裏を再建することで、世の中の人に天皇の権威を示そうとしたのです。
資金を集めるために税を課し、貨幣の鋳造を行いますがうまく機能せず、親政じだいがわずか3年弱で破綻したため大内裏の造営も行われることはありませんでした。