鎌倉府と古河公方、堀越公方の関係を簡潔に答えてください
15世紀になると鎌倉府は古河公方(こがくぼう)と堀越公方(ほりごえくぼう)に分かれますが、その経緯を簡潔にまとめてください。
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室町幕府が関東10カ国を統治するために設置した機関が鎌倉府で、鎌倉府の長官が鎌倉公方、補佐役が関東管領です。初代鎌倉公方基氏は幕府と協調していましたが、鎌倉公方を継いだ基氏の子孫たちはしだいに幕府と対立するようになり、それを諌める関東管領上杉氏としばしば軋轢を起こしました。
1416年の上杉禅秀の乱で鎌倉府は弱体化し、さらに1438年永享の乱で、4代鎌倉公方足利持氏が自刃して鎌倉府は消滅します。その後、持氏の子 成氏が鎌倉府を再興しますが、上杉憲忠を殺害したため幕府から追討を受け下総の古河に逃れて古河公方を称するようになります。
一方、幕府は新たな鎌倉公方として8代将軍義政の兄政知を関東に派遣しますが、争乱状態の鎌倉に入ることができず、伊豆堀越に留まることになり堀越公方となりました。その後、堀越公方は北条早雲によって滅亡させられ、古河公方は5代続きましたが、北条氏の配下となり消滅しました。