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統制派(とうせいは)です。
第一次世界大戦が終わり1921年にワシントン会議が開催されると、世の中の流れは協調へとかわります。
会議に参加した日本も四か国条約、九か国条約、ワシントン海軍軍縮条約に調印しアメリカやイギリスと歩調を合わせました。
協調路線を歩む日本政府に対し軍部では不満が蓄積していきます。
陸軍では国家の改造、革新を唱える思想が展開され、皇道派と統制派と呼ばれる2つの派閥が形成されました。
皇道派は荒木貞夫(あらきさだお)、真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)らが中心となり、直接行動(クーデター)により国家の改革を行おうとする一派。
統制派は永田鉄山(ながたてつざん)、東条英機(とうじょうひでき)らが中心となり、合法的な活動で挙国一致体制をつくり国家の改革を行おうとする一派。過激な皇道派への対抗上形成されたグループであり、皇道派に比べ行動力、結束力は弱かったとされています。
1935年皇道派の相沢三郎(あいざわさぶろう)が統制派の永田鉄山を斬殺する事件を起こします(相沢事件)。この事件を機に勢いづいた皇道派は、翌年二・二六事件を起こしますが、クーデターは失敗に終わり急速に勢いを失いました。
二・二六事件後は統制派が権力を掌握し1941年には東条英機が首相に任命され組閣すると、米英との開戦に踏み切りました。