弥生時代一問一答・全問題
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邪馬台国の女王卑弥呼が没すると男性の王がたてられますが、争いが起こったため再び女性の王が治めるようになりました。この女王の名は何でしょうか? 答えはこちら 壹与(いよ)です。
邪馬台国には支配階級と被支配階級の身分があったとされていますが、それぞれの名称は何でしょう? 答えはこちら 大人・下戸(たいじん・げこ)です。 王に継ぐ上流階級が大人で、下戸が
邪馬台国の所在地については魏志倭人伝の記述があいまいなことから、論争が起こっています。有力な説を2つをあげてください。 答えはこちら 畿内説(きないせつ)と九州説(きゅうしゅう
邪馬台国は29の小国を従えていたとされていますが、邪馬台国の南にある国とは対立関係にありました。この国の名前は何でしょう? 答えはこちら 狗奴国(くなこく)です。 狗奴国は邪馬
239年に邪馬台国の女王卑弥呼は魏に使者を送り朝貢を行います。このとき魏の皇帝(二代皇帝の明帝)から卑弥呼に贈られたもの3つをあげてください。 答えはこちら 「親魏倭王」「金印
魏は朝鮮国内に支配地域(郡)を持っていました。邪馬台国が魏に朝貢するときに中継地となったこの支配地域(郡)は何と呼ばれているでしょう? 答えはこちら 帯方郡(たいほうぐん)です
陳寿が著した三国志「魏書」「呉書」「蜀書」のうち「魏書」の「東夷伝」に記載されている倭人に関する部分を一般的に何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 魏志倭人伝(ぎしわじんで
蜀と晋(西晋)に仕えた役人 陳寿(ちんじゅ)が著した三国時代の正史は何でしょうか? 答えはこちら 三国志(さんごくし)です。 「魏書」30巻「呉書」20巻「蜀書」15巻、全65
後漢書の東夷伝には、2世紀後半に日本で大きな騒乱が起こったことが記されています。この大乱を何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 倭国大乱(わこくたいらん)です。 後漢書の東
西暦107年に倭国王が後漢の安帝に贈った貢物は何でしょうか? 答えはこちら 生口(せいこう)です。 生口(せいこう)とは奴隷を意味すると解釈されています。 倭国王の帥升(すいし
1784年に福岡県志賀島(しかのしま)で発見された金印に刻まれていた文字は? 答えはこちら 漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)です。 読み方は「かんのわのなのこくおう」が定説
「後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)」に記されている印と思われる金印が発見された場所は? 答えはこちら 福岡県志賀島(しかのしま)です。 1784年農民の手により偶然発見され
後漢の光武帝(こうぶてい)から印綬を与えられた、福岡県にあったと推測される国は何でしょう? 答えはこちら 奴国(なこく)です。 57年に後漢の光武帝から印綬を与えられたことが「
前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、現在の平壌付近に設置した郡は何でしょう? 答えはこちら 楽浪郡(らくろうぐん)です。 前漢の皇帝,武帝は衛氏朝鮮を滅ぼし、前108年に現在の平壌付
弥生時代に中国や朝鮮半島での日本の呼称は何でしょうか? 答えはこちら 倭(わ)です。 日本のことを倭、倭人、倭国と呼んでいました。倭という呼称の起源は、我らという意味、侮蔑の意
弥生時代から広まった低い墳丘の周囲に溝をめぐらした墓を何と呼んでいるでしょう? 答えはこちら 方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)です。 方形状に盛土をした低い墳丘の周囲に溝をめ
弥生時代中期から広まった盛土をした墓を何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 墳丘墓(ふんきゅうぼ)です。 墳丘墓は弥生時代中期から西日本を中心に広まりました。 岡山県倉敷市
弥生時代に広まった自然石を支柱にして作った墓を何と呼んでいるでしょう? 答えはこちら 支石墓(しせきぼ)です。 弥生時代に九州で広まった墓制です。自然石数個を支柱にして、その上
甕(かめ)の中に遺骸を入れて埋葬する方法を何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 甕棺墓(かめかんぼ)です。 縄文時代晩期から見られ、弥生時代に北九州で広まった埋葬方法です。
弥生時代から使用されるようになった釣鐘形の青銅器(せいどうき)を何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 銅鐸(どうたく)です。 近畿圏の遺跡から多く発掘されています。小型のも
青銅を磨いて作った鏡を何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 銅鏡(どうきょう)です。 銅鏡は大陸から伝わり、やがて北九州で生産されるようになりました。背面に文様が施されてい
大陸から伝わり、弥生時代になって普及した銅と錫(すず)でできた金属器は何でしょう? 答えはこちら 青銅器(せいどいうき)です。 銅と錫(すず)からできる合金が青銅です。青銅で作
弥生時代に九州から関東で広まった、周囲を濠(ごう)や土塁(どるい)で囲った集落を何と呼んでいるでしょう? 答えはこちら 環濠集落(がんごうしゅうらく)です。 濠は水を入れた堀の
弥生時代中期から後期にかけて出現するようになった、山腹や丘陵につくられた集落を何と呼んでいますか? 答えはこちら 高地性集落(こうちせいしゅうらく)です。 弥生時代中期になる
佐賀県神埼郡にある弥生時代前期~後期の遺跡名は何でしょうか? 答えはこちら 吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)です。 1986年(昭和61年)から現在に至るまで発掘調査が行われて
静岡県静岡市にある弥生時代後期の遺跡名は何でしょうか? 答えはこちら 登呂遺跡(とろいせき)です。 1943年(昭和18年)軍需工場建設中に土器、丸木舟、木製品などが出土しまし
静岡県伊豆の国市にある弥生時代後期の遺跡名は何でしょうか? 答えはこちら 山木遺跡(やまきいせき)です。 1950年に発見されました。水田跡や大量の木製農具など、水稲耕作に関す
弥生時代前期から使用された木製農具のうち、木臼(きうす)と竪杵(たてぎね)はどのようにして使われましたか? 答えはこちら 穀物を脱穀(だっこく)するときの農具です。 木臼の中に
弥生時代後期になると鉄製の農具が使用されるようになりました。主な鉄製農具をあげてください。 答えはこちら 鉄鎌(てつがま)、鉄鍬(てつくわ)鉄鋤(てつすき)です。 鉄鎌は稲を刈
弥生時代に広まった、収穫した穀物を保管する倉庫を何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 高床倉庫(たかゆかそうこ)です。 弥生時代になると、稲作の技術が伝わり日本各地でお米が
稲の穂先を刈るときに手に持って使用した石器を何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 石包丁(いしぼうちょう)です。 石包丁は半円形をした石器です。弥生時代中期までは、稲の穂先
弥生時代中期ごろまで行われていた、米の収穫時に稲の穂先だけを刈り取る方法を何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 穂首刈り(ほくびがり)です。 弥生時代中期ごろまでは、稲の穂
弥生時代後期になると、排水路などの灌漑設備を伴った水田が使用されるようになります。この水田を何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 乾田(かんでん)です。 弥生時代中期までは
弥生時代前期から中期にかけて使用された低湿地に作られた水田を何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 湿田(しつでん)です。 弥生時代になると、大陸から稲作の技術が伝わり米が作
弥生時代、沖縄や西南諸島では海に生息する貝や魚を採取して生活をする独自の文化が展開されます。これを何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 貝塚文化(かいづかぶんか)です。 本
紀元前3世紀から7世紀ごろまで続いた北海道の鉄器文化を何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 続縄文文化(ぞくじょうもんぶんか)です。 本州では縄文時代のあとに、弥生土器、稲
弥生土器の中で脚がついている土器を何と呼んでいるでしょうか? 答えはこちら 高坏(たかつき)です。 皿状の土器に脚を付けたような形をしています。用途としては、お米やおかずなどの
弥生時代になると縄文土器とは違う特徴をもった弥生土器(やよいどき)が登場します。弥生土器の特徴をあげてください。 答えはこちら 縄文土器よりも薄く赤褐色(せきかっしょく)をした