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藤原忠実(ふじわらのただざね)

藤原忠実系図

*藤原忠実系図


藤原忠実(ふじわらのただざね)は1078年 父 藤原師通と母 藤原全子との間に生まれました。 忠実の家系は代々摂政関白を務めてきた藤原摂関家(藤原北家)の嫡流であり、忠実自身も堀河天皇の関白、鳥羽天皇の摂政、関白を務めました。


藤原摂関家は、天皇の外戚となり摂政、関白に就任し天皇を補佐することで政治を動かしてきました。しかし、忠実が生きた時代は院政期であり権力の実権は天皇ではなく上皇や法皇が握っていました。


そのため、上皇や法皇の近くにいて政治を行う「院の近臣」と呼ばれる人々がしだいに力を持つようになります。忠実は凋落していく藤原摂関家を建て直し、再び隆盛に導くことにその生涯をかたむけます。


強い権力を持つ上皇や法皇の命にも従わないこともしばしばあったようです。白河院は自分が寵愛する藤原璋子(のちに鳥羽天皇の中宮となった待賢門院)を忠実の嫡子 忠通の室にするよう求めてきたのですが、素行に問題のある璋子を摂関家の室にすることに反対した忠実は院の要請を固辞します。


これが原因で忠実は内覧を停めれら蟄居の身となります。関白職は嫡子である忠通が就任しましたが、忠実は白河院が崩御するまで10年間謹慎生活を余儀なくされます。


白河院の崩御により、院政を開始した鳥羽院は人事の刷新をはかり、白河院の命で謹慎していた忠実を復帰させます。忠実は鳥羽院に近づき藤原氏の権力回復を画策しますが、これに反対する嫡子忠通と対立するようになります。


忠通は寵愛する次男 頼長に藤原氏の氏長者の地位を譲り忠通とは絶縁状態となります。鳥羽院崩御の後に勃発した保元の乱(1156年)で忠実と頼長は敗北し頼長は戦死!

忠実は忠通の尽力により死を免れ知足院に幽閉の身となります。1162年85歳で病没したと伝えられています。