以仁王(もちひとおう)の挙兵と令旨
以仁王は1151年父後白河天皇、母藤原成子の子として誕生します。後白河天皇の第三皇子ですが兄である守覚法親王が早くに出家したため第二皇子と言われることもあります。第一皇子である守仁親王が即位して二条天皇となります。
*以仁王系図
二条天皇が22歳の若さで崩御すると生まれて間もない二条天皇の皇子順仁(のぶひと)親王が即位して六条天皇となります。以仁王にも皇位継承の可能性があったのですが、後白河天皇の妃で第七皇子憲仁(のりひと)親王を生んだ平滋子(建春門院)や平氏一門の妨害にあい皇位につくことができずにいました。
後白河法皇の寵愛を受けていた平滋子(建春門院)はみずから生んだ憲仁親王を皇位につけるべく画策します。平家一門のバックアップもあり1168年に憲仁親王の即位が実現し高倉天皇が誕生するのです。
さらに清盛の娘徳子が入内し高倉天皇の中宮になり皇子である言仁(ときひと)親王(のちの安徳天皇)が誕生し皇太子になるにおよんで以仁王の即位は完全に絶たれた形になります。
平氏により即位を妨害された以仁王は源頼政と協力して挙兵に踏み切ります。以仁王は全国に散らばっている源氏に平氏打倒の令旨を発しますが計画は早々に露見し平氏の反撃に合うのです。
*以仁王と源頼政
令旨とはもともと皇太子、三后(太皇太后・皇太后・皇后) の命令を伝えるための公式な文書のことでしたが、清盛の生きた時代には皇族の発する文書をすべて令旨と呼ぶようになります。
劣勢に立たされた源頼政は以仁王を奈良へ逃がし自らは宇治で平氏を迎え撃ち善戦しますが、圧倒的な兵力の差にとうとう力尽き平等院で自害して果てます。
*源頼政
また、奈良へ向かっていた以仁王も途中で平氏の追っ手に追いつかれあっけなく討ち取られてしまいます。こうして挙兵は失敗に終わりますが、以仁王の発した令旨により諸国の源氏が蜂起し、やがて平氏を滅亡へと追い込んでいくのです。