江の父浅井長政は現在の滋賀県北側を治める戦国大名でした。滋賀県(近江)の北側を江北、南側を江南と呼び江北は浅井氏、江南は六角氏が領有していたのです。
元々、浅井氏は近江の守護職である京極氏に仕えていた国人だったのですが、長政の祖父亮政の時代に浅井氏を含む国人衆が一揆を起こして京極氏を追放しました。
亮政は国人衆のリーダー的存在となり、小谷に堅牢な山城を築き江北の盟主となったのですが、江南の六角氏との間に度々戦が起こり苦しい立場に立っていました。
そこで亮政は現在の福井県(越前)を治めていた朝倉氏に助けを求め何とか六角氏の攻勢を防いでいたのです。亮政の死後、子である久政が跡を継ぎますが、六角氏の攻勢が激しさを増したためとうとう六角氏の軍門に下りました。
久政は六角氏に臣下の礼をとる証として、息子である新九郎の名前に六角氏の当主六角義賢の一字を賜り賢政と名づけ、さらに義賢の家臣の娘と賢政の婚姻まで取り結びました。この賢政が後の浅井長政です。
賢政は六角氏の軍門に下ったことに不満を持っていたため、同じ考えを持つ家臣と共謀して父である久政にクーデターを起こしたのです。
その結果、久政は蟄居の身となり浅井家の当主には賢政が就くことになりました。当主となった賢政は、六角氏との関係を絶つべく政略結婚していた妻と離婚し、さらに六角義賢から賜った名前を改名して長政と名乗るようになります。
長政は当時16~17歳だったそうですからその決断力と度胸の大きさに驚かされます。この長政の行為に憤慨した六角義賢は討伐の軍勢を江北に向かわせますが、長政の下ひとつになった浅井氏の激しい抵抗にあい撃退されてしまいます。
この戦により江北の国人衆たちの信頼を得た長政は江北の戦国大名となります。これまで同様朝倉氏との関係を保ちながらも独立した動きをみせるようになり、勢力を拡大してきた織田信長との同盟締結へと向かうのです。