織田信長は1534年尾張の守護代織田信秀の三男として誕生しました。母は信秀の正室土田御前であったため兄二人がいましたが信長が嫡男ということになります。
織田家は尾張の守護斯波氏に仕えていた一族で、信長の系統は尾張下四郡を任されていた守護代の家臣という身分でしたが、しだいに信秀が頭角を現し尾張下四郡を支配するに至ります。
1552年信秀が病死すると信長が家督を相続することになりますが、信長の権力は弱く尾張各地にいる織田一族との権力闘争の日々を送ります。兄弟や親戚との争いに勝った信長は尾張の統一に10年を費やしました。
その間信長は隣国美濃を治めていた斉藤道三の娘と結婚をして同盟を強化するとともに勢力を拡大して着々と力をつけていきます。
しかし、1556年斉藤道三が息子の義龍に攻められ自害する事件がおこり、美濃の政情が不安定になる中で、信長は尾張の統一を急ぐことになります。
信長が苦心の結果尾張をほぼ統一した1560年、駿河の今川義元が上洛するために大軍を率いて尾張に攻め込んできました。信長は義元の本陣に少数で奇襲をしかけ義元の首をあげるという大逆転劇を見せます!いわゆる桶狭間の戦いです。この戦により信長の名声は全国に知られるようになります。
信長は京都に上洛するための要所を治める北近江の浅井長政との間に同盟を結び、妹のお市の方を長政に嫁がせます。この長政とお市の方の間にできた子が茶々、初、江の三姉妹です。
美濃を平定した信長は南近江の六角氏を攻めこれを駆逐し、長政の近江支配を助けます。長政も信長に協力して各地で戦を行い信長の勢力拡大の手助けをするのでした。友好関係にあった信長と長政ですが、信長が越前の朝倉氏を攻めたことから長政との間に亀裂が入り、長政は朝倉氏と連携して信長と対立します。
姉川の戦いで浅井、朝倉軍を破った信長は、朝倉氏、浅井氏を滅ぼし近江、越前を支配下に治めていきます。その後も長篠・設楽が原の戦いで武田勝頼を破り武田家を滅ぼし、一向一揆を鎮圧、石山本願寺を制圧して畿内一体を支配下に治め、配下の武将を北陸、関東、中国地方に派遣して天下平定へと突き進んでいくのでした。
しかし、1582年家臣の明智光秀の謀反のあい本能寺で自害!髪の毛一本この世に残すことなく業火の中49年の生涯を閉じます。