姉川の戦い
織田信長は1567年美濃の斉藤龍興を攻めこれを駆逐し念願の美濃を手中に治めます。松永久秀と三好三人衆によって殺害された13代将軍足利義輝の弟義昭が信長を頼ってくると、信長はこれに応じ義昭を奉じて京への上洛を実行にうつします。
上洛の妨げになる南近江の六角義賢を攻め居城観音寺城を攻略!六角氏を江南から追い出し京への上洛を果たしたのち義昭を征夷大将軍に就かせることに成功します。
当初は信長に感謝していた義昭ですが、自分が信長の傀儡であることに不満を抱き各地の有力大名と連携をとり信長包囲網を築いていきます。
これに対し信長は包囲網の一角である越前の朝倉義景討伐に動き、兵を敦賀、金ヶ崎へと進め朝倉方の支城を次々に落としていきます。
快進撃を続ける信長のもとに驚愕の知らせが届きます。信長の同盟者で妹お市の夫である浅井長政が裏切り信長軍の背後から攻めてくるというものでした。
浅井と朝倉に挟み撃ちにされてはさすがの信長も勝ち目はありません!この一報を聞いた信長は木下藤吉郎秀吉を含む数名の武将に殿を命じて、わずかばかりのともを従え京都に逃げ戻ります(金ヶ崎の退き口)
浅井長政がなぜ信長を裏切ったのかは諸説あります。長政と信長が同盟をする際に朝倉氏を攻めるときは事前に相談する旨の約定があったにもかかわらず、信長は長政に知らせることなく朝倉討伐の軍を進めたというのが通説となっています。
そしてもうひとつが、長政の鬱憤説です。信長と長政の同盟は対等のはずでしたが、信長はしだいに長政を家臣のごとく扱いはじめます。信長との同盟により南近江を手に入れた長政でしたが、度重なる戦への参陣命令のため浅井の国力は疲弊していき信長への不満から裏切りを行ったというものです。
どんな理由にせよ信長を裏切るという行為は浅井家にとっても一族の命運をかけた重い決断であったはずです。信長の命を奪う最大のチャンスを逃した浅井、朝倉は信長の反撃に備え各地の大名と連携を図り信長包囲網を広げていきます。
一方、京都に戻った信長は岐阜で軍備を整え近江に進行!いくつかの浅井の支城を落とし虎御前山に砦を築きます。これを迎え撃つ長政も朝倉景健の援軍を得て姉川に陣をはり両軍が対峙します。
織田軍は援軍に駆けつけた徳川軍を合わせると3万を超える大軍勢!一方、浅井、朝倉軍は2万弱の兵力ですが、地の利は浅井にあり互角に戦える布陣を引きます。
1570年6月28日早朝、両軍の間で戦闘が開始され織田は浅井と、徳川は朝倉と戦い凄まじい激闘が行われました。浅井勢の気迫に押され気味だった織田軍でしたが、徳川軍が朝倉軍を撃破したのを機に浅井軍も総崩れとなり小谷城に退却していきます。
戦闘開始から8時間近くにもわたる激しい戦で、両軍合わせて2000人を超える死者を出し、浅井・朝倉軍の敗走という形で決着がつきました。
敗走する浅井・朝倉軍を追撃する織田・徳川軍ですが、信長は小谷城が堅牢な山城であり、深追いすれば味方の犠牲が多くなるとみて追撃を中止!軍を引き上げます。
その後、信長は数年かけて信長包囲網の大名たちを個別に撃破していきます。浅井、朝倉氏が滅亡するのは姉川の戦いから3年後の1573年のことです。