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初の夫 京極高次

京極高次
*京極高次

江が結婚してから3年後の1587年次女の初に結婚の話しが持ち上がります。相手は京極高次という人物で近江の高島郡を領する大名でした。


1万石以上の所領を得ている家を大名と呼ぶのですが、当時の京極家は秀吉により1万石を与えられたばかりで、ようやく大名の仲間入りをしたという状況でした。初の結婚相手としてはいささか釣り合いがとれません。ではなぜ初の結婚相手に高次が選ばれたのでしょうか?


まずひとつめは、落ちぶれたとはいえ京極家は由緒正しい名門の家柄だということです。南北朝時代の代表的人物佐々木道誉の子孫であり、室町時代に京極家と六角家に別れ、京極家が北近江を六角家が南近江を領有し守護職を任せられた家柄なのです。


つぎに高次と初は従兄弟どうしだということです。初の父である浅井長政には姉がいてこの姉(京極マリア)の夫が京極高吉であり、このふたりの間に生まれた子が高次なのです。


そして、高次が初の結婚相手に選ばれた最大の理由は高次の姉である松の丸殿(京極龍子)の影響力だといわれています。松の丸殿(京極龍子)は、若狭の大名武田元明に嫁いでいましたが、夫の元明が本能寺の変で明智光秀に味方したため秀吉の命令で殺害されてしまいます。


京極龍子の美貌に惹かれた秀吉は、自分の側室にして伏見城の松の丸を与えたことから松の丸殿と呼ばれるようになります。


松の丸殿は秀吉に頼み弟である高次を大名にしてもらい京極家の復興に力を入れます。京極家の当主である高次にふさわしい嫁として信長の姪であり、浅井の血をひく初を望んだといわれています。


初と高次が結婚してから京極家は順調に加増され6万石となります。姉や妻の影響力で加増を受けたことから蛍大名と揶揄されましたが、関が原の戦いで功績をあげ若狭の国9万2千石を領することになります。


初と高次は夫婦仲が良かったようですが、子宝には恵まれなかったため側室に生ませた忠高が京極家を継ぐことになります。初は妹の江に頼み江と徳川秀忠との間に生まれた女の子(初姫)を貰いうけ忠高と結婚させるのです。


高次は1609年に亡くなり、初は落飾して常高院と名乗り夫の菩提を弔いながらも、姉である淀(豊臣家)と妹である江(徳川家)とのパイプ役となり奔走することになります。