茶々、秀吉の子鶴松を出産!淀殿と呼ばれるようになる
秀吉の側室となった茶々は数年後に長男である鶴松を身ごもります。茶々懐妊の知らせを受けた秀吉の喜びようは大変なもので、出産のための産屋作りを弟の秀長に命じます。
秀長は淀津(よどのつ)にあった砦を改築して本格的な城(淀城)をわずか3ヶ月程で築城します。秀吉は自分の子の産屋として城をひとつ作ってしまったのです!
淀城に入った茶々はこれ以後「淀殿」「淀の方」「淀君」と呼ばれるようになり、1589年5月に男の子を出産します。50を過ぎて実子をあきらめていた秀吉にとってこれほどうれしいことはありません。
まして、跡を継ぐべき男子が生まれたわけですから!秀吉は狂喜乱舞して公家や大名たちに黄金をばらまいたという話も残っているほどです。
生まれた男の子は、はじめ「棄(すて)」と名づけられました。これは、捨て子は健康に育つという伝承からきたもので、間もなく鶴松という幼名がつけられました。
鶴松は数ヶ月間淀城で過ごした後、秀吉の命令で大坂城に移ります。鶴松が秀吉の後継者であることを天下に知らしめるため、大坂城で養育することになります。
お世継ぎである鶴松は茶々の手を離れ正室のおねが育てることになり、茶々はお世継ぎの生母として、正室のおねに次ぐ地位を得るようになります。