江の再婚相手 豊臣秀勝(羽柴秀勝)
佐治一成との結婚が短期間で終わった江に再婚の話しが持ち上がります。相手は秀吉の甥である豊臣秀勝(羽柴秀勝)です。
羽柴秀勝という人物は3人存在するため、混同しないように石松丸秀勝、於次丸秀勝、小吉秀勝と呼ばれています。
秀吉には長浜城主時代に側室である南殿との間にできた秀勝(石松丸秀勝)という男子がいたという伝承があります。秀勝は早世してしまったため、嘆いた秀吉は主君である信長の四男である於次丸を養子としてもらいうけ秀勝(於次丸秀勝)を名乗らせ跡取りとして育てます。
本能寺の変で実父である信長と兄信忠が死去し、秀吉が天下を治めるようになると微妙な立場となる於次丸秀勝ですが、丹波亀山城を与えられ数々の合戦に参加をします。その秀勝も18歳(19歳説もあり)で病死してしまったため、秀吉は姉であるともの子を養子に向かえ秀勝(小吉秀勝)を名乗らせます。この小吉秀勝が江の再婚相手です。
当然ですが、江の再婚相手に小吉秀勝を選んだのは豊臣秀吉です。鶴松の誕生により自分の権力を鶴松に譲るため、血縁関係のある者を固めておきたかったのでしょう。秀吉は百姓の出であったため、信長や家康のように譜代の家臣がいません。
加藤清正、福島正則らを子供の頃から養育し、自分の命令に忠実な子飼いの家臣として育てましたが、信頼できる身内をしっかり固めるために鶴松の母、淀殿の妹江と自分の甥秀勝を結婚させたのです。
秀勝の兄秀次はすでに尾張などで100万石の領地を与えられ、さらに秀勝の弟秀保は、秀吉の弟大納言秀長の養子となっていましたが、秀長病死後、正式に跡を継ぎ大和郡山城主となり100万石を相続することになります。
秀勝は九州遠征の論功行賞に不満を持ったため、一時秀吉の不興を買い領地を召し上げられていましたが、その後許され甲斐、信濃の領地を与えられます。その後、美濃に領地替えとなり岐阜宰相と呼ばれるようになるのです。
秀勝と江の結婚は1592年(1589年や1586年説もあり)に行われますが、秀勝は同年の文禄の役で朝鮮に出兵し、異国の地で24歳という若さで病死をしてしまいます。ふたりの結婚生活はわずか数ヶ月ということになります。
秀勝と江の結婚が1592年だとすると、佐治一成との最初の結婚も秀勝との再婚もごく短期間で終わったことになり、ここまでの江は男運がないとしかいいようがありません。
秀勝と江の間には長女である完子(さだこ)が生まれます。一人娘完子は、江が徳川秀忠と結婚することが決まると、淀殿の養子(豊臣完子)となります。淀殿は完子を大切に育て、やがて五摂家のひとつである公家の九条幸家に嫁がせることになるのです。