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豊臣秀吉の朝鮮出兵・慶長の役

小西行長、石田三成を中心とした勢力は、明との講和を望み明側の使者と交渉を行うようになります。三成から報告を受けた秀吉は明使を名護屋に招き講和の条件をつきつけます。


その後も行長、三成は明と交渉を続けるのですが、秀吉の講和条件では話しがまとまらないとみるとあいまいな表現を用いて講和条件を書き換えてしまうのです。


これに対し、加藤清正はあくまで武力により明を攻めるべきだと主張し行長、三成と対立します。この戦争を早く終わらせたい行長、三成にとって最大の障害となるのが加藤清正です。


行長、三成は秀吉から清正を遠ざけることを画策します。三成は秀吉に書状を送り、清正の横暴な態度や和平交渉妨害などの罪状を訴えます。讒言を信用してしまった秀吉は清正を日本に呼び戻し拝謁することを許さず謹慎処分にしてしまうのです。


清正がいなくなったことで明との和平交渉が順調に進み、明と朝鮮の正使が秀吉に謁見して和平を締結する段取りが組まれました。しかし、ここで思わぬ大事件が起こります。正使が来日した直後、畿内を中心に大地震が発生してしまうのです!


この地震は阪神淡路大震災に匹敵する規模の大地震で、秀吉の居た伏見城も大きく揺れ多数の人が建物の下敷きになります。そのときです!謹慎処分を受けていた清正が屈強な家臣を引き連れ秀吉のもとに駆けつけてきました!


秀吉はたいそう喜び清正の謹慎処分をとくとともに清正から行長、三成の画策を聞かされるのです。この大地震により清正が劇的に復活したことから「地震加藤」と呼ばれるようになります。


甚大な被害を受けた伏見城から大坂城に場所を移し、明からの正使と謁見した秀吉は、自分が提示した講和条件と違うことに怒り朝鮮への再出兵を下知します。秀吉は講和の交渉をした行長を処分しようとしますが、三成や宇喜田秀家ら多くの武将が和平を望んでいることを考慮して処分を取りやめます。


1597年再び14万を超える軍勢が朝鮮へ上陸し、凄惨な戦(慶長の役)が行われます。秀吉は首のかわりに鼻をそいで塩漬けにして送るように命じたため、諸将は兵士のみならず、農民や商人、老若男女を殺戮し、その耳や鼻をそぎ秀吉のもとに送ったとされています。この凄惨な戦は1598年8月18日太閤秀吉の死により終焉を向かえます。


文禄、慶長の役は独裁者となった秀吉の悪政の象徴となり、秀吉死後の豊臣政権に深刻なダメージを与えます。豊臣恩顧の武将が三成、行長ら奉行派と清正、正則ら武断派に分裂してことあるごとに対立をします。この分裂を徳川家康に利用され豊臣家は滅亡へと進んでいくのです。