秀勝を失った江に対して豊臣秀吉はまたしても政略の道具として江を利用します。秀吉が江の再婚相手に選んだ人物は徳川家康の三男徳川秀忠でした。
秀吉は江の姉、淀の方との間にできた秀頼を溺愛し、わが子に跡を継がせるためあらゆる手をつくします。
1595年関白職を譲っていた甥の秀次を謀反の疑いがあるとして高野山に追放したのち切腹させ、秀次の妻子ら30数名を三条河原で処刑するという暴挙を行います。
秀次の血筋を根絶やしにした秀吉は、次に血縁の強化を画策します。秀頼の母、淀の方の妹である江と諸大名の中で最も力のある徳川家の後継者である秀忠との婚儀を取り結ぶのでした。
では、江の3人目の夫となる徳川秀忠とはどのような人物なのでしょうか。
徳川秀忠は1579年、父 徳川家康と母 西郷の局(西郷愛)との間に誕生します。幼名は長丸もしくは長であったようです。
家康にはすでに長男信康と次男秀康がいたので秀忠は三男となりますが、秀忠が生まれた年に長男信康が織田信長の命で切腹!
次男、秀康はなぜか家康から疎まれていたため、秀忠が世継ぎ候補の筆頭となります。
次男である秀康がなぜ家康に疎まれていたのかはっきりしないのですが、秀康の母が武家の出でないことや、当時忌み嫌われていた双子であったことなどが理由とされています。
一方、秀忠の母、西郷の局は、信康切腹で一緒に処刑された正室築山殿亡き後、家康の寵愛を受け、正室に近い立場にいた女性でした。
秀忠には同じ母を持つ弟である忠吉がいるのですが、この忠吉も家康から寵愛されていたことを考えると母の立場の違いが、後継者問題に深く影響を与えていたことが推測されます。
秀忠の母、西郷の局は、弟忠吉を出産後体調を崩し1589年に病死してしまったため、秀忠は10歳で母を失うことになります。
家康は今川義元の重臣であった岡部貞綱の娘を秀忠の乳母とします。家康が今川家に人質として預けられていたときに岡部貞綱の娘と交流があり、彼女の人柄を見込んで乳母を依頼したようです。
この乳母は大姥局と呼ばれ、当時すでに50歳近い年齢であったことから、乳母というよりは養育係に近い存在だったのでしょう。
大姥局は、大らかでやさしく芯のしっかりした女性であったようです。この大姥局が秀忠の人格形成に果たした役割は大きく、秀忠が徳川家の跡取りとして立派に成長したのもこの大姥局がいたからこそと言われています。
秀忠も終始大姥局を大切に扱い、臨終の際も枕元に見舞い直接手をとり言葉をかけたそうです。
1590年秀忠は豊臣秀吉の人質となり、聚楽第で秀吉と対面を行います。秀吉と正室のねね(北の政所)はたいそう喜び、秀忠を丁重にもてなします。
そして、織田信雄の娘であり当時人質として秀吉の元で養育されていた小姫と婚約をさせるのでした。
もちろん、この婚約は政略的なもので、豊臣と徳川の結びつきを強めるために秀吉が画策したものだったのですが、小姫の父である織田信雄と秀吉の仲がこじれ、信雄は改易となったため婚約は破談となり、しばらくして小姫は病死してしまいます。
小姫と破談になった秀忠、ふたり目の夫である秀勝を病死で失った江、自分が亡き後、秀頼の世を磐石にするため秀吉はこのふたりを一緒にさせることを決めます。
1595年江と徳川秀忠は伏見で婚儀をあげます。江は23歳、秀忠は17歳、江は秀忠より6歳年上の姉さん女房となります。
江にとっては三度目の結婚、秀忠は小姫との婚約がありますが、実質的に結婚するのは初めてです。
江は秀勝との間に生まれた定子を姉の淀の方に預け、身ひとつで秀忠の元に嫁ぐのでした。