江と徳川秀忠の子どもたち
江と徳川秀忠は政略結婚で結ばれましたが、ふたりの仲は良く7人の子を授かりました。
秀忠は6歳年上の江に気を使い側室をおかなかったのですが、秀忠の乳母であった大姥の侍女 静という女性との間に男子をもうけていました。
静との間に生まれた子は信濃 高遠城主であった保科正光の養子となります。この子が後に会津藩主となり幕府を支えていく保科正之です。
江と秀忠の子は7人ですが、すべて江が生んだ子供かどうか疑問をいだく研究者もいます。ここでは通説にしたがい7人の子どもすべてを江が生んだとしておきます。
■長女 千姫
わずか7歳で従兄弟である豊臣秀頼に嫁ぎますが、徳川家と豊臣家との間に戦がおこり、焼け落ちる寸前の大坂城から救出され命びろいをします。秀頼自刃後は、本多忠刻と再婚をします。
本多忠刻は、徳川四天王のひとり本多忠勝の孫になります。忠刻と千姫の仲はよかったようで、長女勝姫と長男幸千代を授かりますが、幸千代はわずか3歳で病没、1626年には忠刻も死去したため
出家して天樹院となり江戸城で暮らすことになります。長女である勝姫を岡山藩主池田光政に嫁がせ、千姫は1666年70歳でこの世を去ります。
■二女 珠姫
徳川家と前田家の政略結婚により、わずか3歳で加賀藩主前田利家の4男で3代藩主である前田利常に輿入れします。14歳になると正式に利常と結婚して、24歳で病没するまで3男5女を育てました。(養子含む)
■三女 勝姫
徳川家康の次男、結城秀康の子である松平忠直の正室となります。夫である忠直は、大坂夏の陣で勇将真田幸村を討ち取り戦功をあげますが、
褒美がなかったことに不満を覚え家臣、領民を殺すなど乱行が目立つようになります。妻である勝姫を斬りつける事件を起こし豊後へ配流となります。
勝姫は江戸で子どもたちを養育し、長男仙千代(松平光長)には越後高田26万石が与えられ、越後高田藩・初代藩主となります。
■四女 初姫
生まれてすぐに京極家の養女となります。母である江の姉・初には子供が生まれなかったため、初が江に懇願して養女としてもらいうけました。初は夫である京極高次と側室との間に生まれた忠高と初姫を結婚させます。
初にとって姪にあたる初姫を京極家に迎えることで浅井の血を残し、徳川家との結びつきを強めることができると考えたのでしょうが、初の思惑通りにはいきませんでした。
忠高と初姫の仲は悪く、29歳という若さで初姫は亡くなるのですが、臨終のとき忠高は相撲見物をしていて気付かなかったそうです。初姫の死を悲しんだ父秀忠は、葬儀一切を徳川家で行い、京極家の参列を許しませんでした。
■五女 和子
後水尾天皇に入内して興子内親(おきこないしんのう)を生みます。この興子内親が即位して女帝・明正天皇(めいしょうてんのう)となり、和子は天皇の母として東福門院の号を賜ります。
■長男 家光
父、秀忠の跡を継ぎ徳川幕府3代将軍となります。家光については別ページで詳しく説明します。
■次男 忠長
家光の弟で、幼名を国松といいます。成人して駿河を領有したことから駿河大納言と呼ばれるようになります。兄である家光との確執から改易となり自刃して果てます。忠長については別ページで詳しく説明します。