尾張中村の百姓の家に生まれながら、わずか一代で関白の位にまでのぼりつめた英雄 豊臣秀吉は1598年8月18日、伏見城でその生涯を終えます。
遺命により五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜田秀家、上杉景勝)五奉行(浅野長政(秀次事件に連座して失脚)、石田三成、増田長盛、長束正家、 前田玄以)が政権の運営にあたることになります。
五大老の中でも、信長の同盟者であり秀吉のライバルでもあった徳川家康の存在が他の4人より頭ひとつ抜けていました。
秀吉の竹馬の友である前田利家が家康に次ぐ実力者であり秀吉の死後、家康の専横をとめる役割を担うことになります。前田利家は秀頼の後見役として大坂城に入り、家康は伏見で政務をとりしきることになります。
利家は秀吉の遺言に従い秀頼を守る決心をしますが、家康にはそんな義理はありません。豊臣政権を支える一大名で終わるつもりはなく、自分の政権を獲得するために様々な布石を打っていきます。
大名同士の婚姻を勝手に行ってはならないとする秀吉の遺言を破り、福島、黒田、伊達らの縁組を斡旋します。
家康の専横に危機感を持った石田三成は前田利家とともに家康を詰問し、行き過ぎた行動の謝罪をさせますが、その利家が間もなく亡くなると力のバランスが崩れます。
朝鮮出兵で噴出した秀吉政権内の対立が利家の死により再び再燃し、武断派の7将(加藤清正、福島正則、黒田長政、藤堂髙虎、細川忠興、浅野幸長、蜂須賀家政)が石田三成を襲撃する事件が勃発します。
襲撃を事前に察知した石田三成は、政敵である徳川家康の伏見屋敷に逃げ込みます。まさに、敵の懐に飛び込む!死中に活を求める!三成苦肉の策ですが、これはフィクションであり実際は自分の伏見屋敷に立てこもり毛利輝元に仲裁を依頼して毛利輝元と徳川家康が仲立ちしたという説もあります。
どちらにしても、この事件で石田三成は政権から追い出され領国の佐和山に戻ることを余儀なくされます。