七武将の石田三成襲撃事件で三成を佐和山に蟄居させた徳川家康の次のターゲットは会津の上杉景勝でした。
五大老のひとり上杉景勝は秀吉の存命中越後から会津に領地替えがあり、秀吉の死後も新しい領国の経営に時間をとられ会津に滞在する期間が多くなります。
城の修復や街道の整備を重点的におこなっていたことから謀反を企てているとの噂が流れます。上杉領内に近接する大名からの報告や上杉家を出奔した家臣の証言もあり、家康は上杉家に対し上洛と誓紙の提出を求めました。
これに対し上杉家の家老直江兼続は、家康を痛烈に批判する返書(直江状)を送ったため家康が激怒して上杉討伐の軍を編成します。
この上杉討伐は公儀の戦であることを印象づけるため、家康は秀頼から了承を得て戦費として黄金と兵糧を賜り出陣します。しかし、本当の目的は反家康派の一掃であり、家康のいない間に謹慎中の石田三成が挙兵することを計算しての行動でした。
三成は親友である大谷吉継のアドバイスを受けて、西軍の総大将に毛利輝元を担ぎ出すことに成功し、家康のこれまでの専横を記した弾劾文を発し挙兵します。
三成は上杉討伐に向かっている武将の妻子を人質にとるため、大坂にある各大名の屋敷をおさえ妻子を大坂城に移そうとしますが、これを拒んだ細川忠興の正妻 細川ガラシャが自害をする事件がおきます。
一方、上杉討伐軍は小山付近で三成挙兵の知らせを受けると評定を開き、このまま家康に味方をして従軍するか、三成側につくかを決めることになります。
家康にとってこの評定は、関が原本戦と同じくらい重要なものでした。上杉討伐に参加している大名の中には豊臣恩顧の武将が多く、、妻子を人質にとられていることもあり、家康に従うかどうか決めかねていました。
そのため家康は事前に根回しをします。黒田長政に依頼して豊臣恩顧の大名の中心人物であった福島正則を説得して、打倒三成のため家康に協力することを約束させるのです。
実際の評定では、正則の「内府(家康)に御味方する」という発言が決め手となり、上杉討伐に従軍した武将のすべてが家康とともに三成を討つことに合意するのでした。
すべてといいましたが、実はこの小山評定で西軍につくと発言した大名がひとりいます。田丸直昌という人物で美濃岩村城で4万石を領有する大名です。並み居る武将の中でただひとり西軍へ味方すると発言したこの武将を、家康は稀に見る忠義の家臣として褒め称えたそうです。
ただし、これはつくり話しで田丸直昌は小山評定には参加していないとする説もあります。西軍についた田丸直昌は戦後所領を没収され越後へ流罪となりました。
この小山評定で目覚しい功績をあげた武将がいます。そうです!山内一豊です。山内一豊は自分の城である掛川城を家康に明け渡すと発言しました。この発言がきっかけとなり次々に同調するものが増えたため、家康は何の苦労もなく戦略上重要な東海道筋の城を手に入れることになります。
この自分の城を提供するという案は元々堀尾忠氏のもので、このアイデアを山内一豊が盗んだ、もしくは合意のうえ発言したとも言われています。山内一豊はこの発言により後の論功行賞で掛川6万石から土佐24万石へと加増され有力大名の仲間入りをするのです。