淀の方と豊臣秀頼の関が原
豊臣秀吉の死去により、豊臣政権は五大老、五奉行の合議制となりました。しかし、五大老のひとり前田利家が亡くなると徳川家康の力が突出したかたちとなり、これに危機感を抱いた石田三成は家康と対立することになります。
7武将の襲撃事件により、佐和山で謹慎中の三成でしたが、上杉討伐のため会津に向かった家康のいない隙に挙兵し、毛利輝元を総帥にまつりあげ淀の方、秀頼のいる大坂城に入ります。
三成は淀の方に秀頼の出陣を懇願しましたが、淀の方は大切な息子を戦地に行かせることには反対で、この要請を拒否しました。
もし、秀頼が関が原に出陣していたら戦局は大きく変っていたかも知れません。東軍に加わった武将の多くが豊臣恩顧の大名であり、戦場で秀頼の姿を見れば攻撃することはできなかったでしょう。
また、関が原に姿を見せなくても、秀頼が出陣したと聞いただけで戦意を喪失する武将や西軍に寝返る武将もでたはずです。その意味で、秀頼が出陣しなかったことは家康にとって幸運でした。
結果として東軍が勝利をしたわけですが、淀の方は出陣さえしなければ秀頼の身に害は及ばないと考えていたようです。
あくまで豊臣政権内の家臣同士の争いであり、どちらか一方に肩入れすると負けたときのリスクが大き過ぎると考えていたのでしょう。
関ヶ原に勝利した家康もまだこの段階では秀頼をたてて、表面的には豊臣家の家臣である立場をとっています。
しかし、権力はしだいに豊臣から徳川へ移り、秀頼と淀の方は真綿で首を絞められるがごとくじりじりと追い詰められていくのです。