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方広寺鐘銘事件と片桐且元の失脚

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て徳川家の支配力を徐々に拡大してきた家康ですが、自らの老いと秀頼の成長に焦りを感じ少々強引な手段にうってでます。それが方広寺鐘銘事件です。


秀頼と淀君は、秀吉の追善供養と豊臣家の繁栄を願い各地の寺社を改築したり、新たな造営を積極的に行っていました。


方広寺は秀吉存命中に建てられたものが1597年の地震により倒壊してしまったため、秀頼の命令で1612年から大仏殿の再建が始まり、1614年には大仏殿の開眼供養が8月に行われる予定でした。


その大仏殿の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれていたことから、家康を呪い、豊臣家の繁栄を願う文章であると因縁をつけたです。


秀頼と淀君は、片桐且元を家康の元に派遣し弁明を行いますが、且元は家康との面会を許されず、本多正純、金地院崇伝から詰問を受け家康の意向を伝えられます。

家康は
1、秀頼に江戸参勤をさせる
2、淀君を人質として江戸に差し出す
3、秀頼が大坂城を出て国替えする

この3条件のうちいずれかを受諾するよう求めたのです。


片桐且元には面会しなかった家康ですが、淀君の使者として派遣された大蔵卿の局には会い「今回の件は悪いようにはしない!心配しないように」と直接言葉をかけています。


大坂に戻った且元と大蔵卿の局の報告があまりに違うことから、淀君は且元が家康に寝返ったと疑い、家康の提示した3条件いずれも受け入れるつもりはないと突っぱねてしまうのです。


裏切り者の疑いをもたれた且元は命を狙われることになり、以後私邸に閉じこもり出仕をしなくなります。賤ヶ岳七本槍のひとりとして知られる且元はこうして豊臣家中で浮いた存在となり、やがて大坂城を退去し居城である摂津茨木城に戻ります。


大坂の陣では秀頼の助命を条件に徳川方につき大坂城内の情報を家康に伝えます。夏の陣後4万石に加増されますが、秀頼の命を救うことができなかったことを悔い自刃したと伝えられています(病没とする説もあり)