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大坂夏の陣 淀君・豊臣秀頼自害

和議により一時的に休戦状態となった豊臣、徳川両家ですが、この和平は一時的なものであることは誰の目にもあきらかでした。豊臣内部では強硬派と穏健派の対立が深刻な状態となります。


淀君の乳母であった大蔵卿局には3人の息子(大野治長、治房、治胤)がいました。ドラマでは大野治長が強硬派として描かれることが多いのですが、実際には治長は穏健派であり、家康と交渉を重ね何とか豊臣家の存続を図ろうと尽力しています。


対して、弟の治房は強硬派の一翼を担い終始徹底抗戦を主張して反徳川を貫きます。また、10万人いたとされる浪人たちは徳川体制からはじきだされた人たちであり、彼らが和平を望むはずはなかったのです。


家康は大坂城から退去した片桐且元や織田有楽斎から豊臣内部の情報を得るとともに、京都所司代板倉勝重に調査をさせ、大坂方が兵糧を蓄えていることや、新たに浪人を集めているなどの報告を受けます。


さらに、豊臣家に雇われた浪人が京の街に火をつけたとの一報を受けた家康は大坂方を詰問し(1)秀頼の大和、郡山へ国替え(2)雇った浪人を放逐するかどちらかをのむようにと最後通牒を突きつけるのです。


大坂方では軍議を開きこの最後通牒を拒絶するとともに徳川家との再戦を決定します。しかし、実際には二の丸、三の丸の堀は埋め立てられ裸城となっていた大坂城に籠もって戦うことは不可能であり、兵力や装備の面でも大坂方に勝つ見込みはありませんでした。


真田幸村、毛利勝永など主だった武将は死んで名を残す道を選ぶことになります。道明寺の戦いで後藤基次が戦死、若江の戦いで木村重成が戦死、、天王寺口の戦いでは、真田幸村が越前の松平忠直隊と激戦を展開し敵中を突破した幸村隊が家康本陣に3度突入し、家康自身死を覚悟したといわれるほどの活躍をしますが、松平忠直の家臣、西尾久作に撃たれ壮絶な討死をします。


真田隊の全滅により豊臣方の敗戦が決定的となり、大坂城は二の丸、三の丸が焼け落ち本丸のみが残る状態となります。


大野治長は千姫を大坂城から落ち延びさせ秀頼、淀君の助命を嘆願しますが、これが聞き入れられないことを悟ると、隠れていた山里曲輪に火をかけ秀頼、淀君が自害をして豊臣家は滅亡するのです。