吉田松陰(よしだしょういん)は、1830年に長門国萩で誕生します。長州藩士である父 杉百合之助(すぎゆりのすけ)と母 滝(たき)の二番目の子供で、幼名は寅次郎と名付けられます。
兄の梅太郎とは2歳差で、のちに妹4人(三女艶は早世)と弟1人が生まれました。寅次郎の生家杉家は、無給通組(むきゅうどおりぐみ)と呼ばれる下級武士の家柄で、禄高は26石という微禄であったため畑仕事をして生活を維持していました。
杉家は、もともと萩城下の川島町に住んでいましたが、1813年に起きた火事で家が焼けてしまい、萩城の東にある松本村に越してきたのです。
杉家の人たちは。貧しいながらも勤勉であったため、松陰の叔父大助は吉田家、文之進は玉木家の養子に迎えられます。吉田家、玉木家は杉家よりも格が上の家柄であり、叔父二人は学問で身を立てたのです。
寅次郎も幼い頃より父から教育を受け、4歳ですでに四書五経(ししょごきょう)を学んでいたそうです。
四書五経とは、儒教の教えの中で特に重要といわれる9種の書のことで、四書は「大学 だいがく」「中庸 ちゅうよう」「論語 ろんご」「孟子 もうし」、五経は「易経 えききょう」「詩経 しきょう」「書経 しょきょう」「礼記 らいき」「春秋 しゅんじゅう」のことです。
寅次郎と兄の梅太郎は、父の畑仕事の合間にあぜ道で教えを受けました。勉学に励む寅次郎をみていた叔父の大助は「寅次郎を吉田家の養子にください!」と兄百合之助に頼みます。
吉田家は長州藩の兵学師範の家柄であったため、吉田家の養子となれば、やがては藩校「明倫館」の師範になることができます。百合之助はこの願いを聞き入れ、寅次郎を吉田家の仮養子とするのです。
しかし、翌年になると大助が他界してしまったため、わずか6歳で吉田家の跡を継ぎ名を「吉田大次郎」と改めます。大次郎はまだ幼かったので実家の杉家で父母と一緒に暮らしていました。
将来は「明倫館」の師範になる大次郎の養育にあたったのが、もうひとりの叔父である玉木文之進でした。文之進の教育方針は超スパルタで、勉強に身が入っていないと容赦なく殴られたそうです。
文之進から厳しい教えを受けた大次郎は、10才になると藩校「明倫館」で山鹿流軍学の講義をするまでになります。
さらに、11歳のときには、藩主毛利敬親(もうりたかちか)の御前で、山鹿素行の「武教全書」を講義し、敬親から大いに褒められるのです。大次郎は、神童として藩内にその名が知れ渡るようになります。
大次郎が13歳のときに、文之進が「松下村塾」を開くと、大次郎と梅太郎も入塾し、さらに勉学に励むのです。
*吉田松陰(よしだしょういん)系図