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文(ふみ)の兄 杉梅太郎(すぎうめたろう)

杉梅太郎(すぎうめたろう) 文の兄
*杉梅太郎(すぎうめたろう) のちに杉民治(すぎみんじ)

杉梅太郎(すぎうめたろう)は、1828年に長門国萩松本村で誕生します。長州藩士である父 杉百合之助(すぎゆりのすけ)と母 滝(たき)の最初の子供で、弟に寅次郎(吉田松陰)と敏三郎、妹に千代、寿、艶、文がいます。


梅太郎は、学問好きであった父百合之助や叔父二人(大助、文之進)の影響で、幼いころから本を読んでいました。


2歳差の弟寅次郎は、いつも梅太郎と行動を共にしていて、勉強するときも寝る時も一緒で、周囲の人が感心するほど兄弟仲は良かったそうです。


幼少期から父や叔父から厳しい教育を受けた梅太郎ですが、学問の才能は寅次郎には及びませんでした。


吉田家の養子となり藩内で知名度を上げる松陰に対し、梅太郎はその才能を認めバックアップをしていきます。


しだいに過激な思想に傾倒していく松陰を心配しながらも、梅太郎は陰で支え続けたのです。そんな自慢の弟である松陰とも別れのときがきます。


老中間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を企てた罪で投獄された松陰は、さらに江戸に送られ処刑されてしまったのです。


松陰の死を嘆き悲しむ杉家の人々!梅太郎と父百合之助は、松陰の罪に連座して役職を罷免されます。


その後、復職していくつかの役職を歴任しますが、対立する俗論派(ぞくろんは)が藩内を牛耳るようになると再び罷免となります。


1865年、倒幕を推し進める正義派と、幕府への恭順を唱える俗論派との武力衝突が起き、長州藩は内戦状態となります。梅太郎は東光寺組を結成して俗論派と戦います。


正義派が勝利すると梅太郎は民政方内用係に就任します。1869年には、藩への貢献が認められ、藩主から民治(みんじ)の名を賜り、以後杉民治(すぎみんじ)を名乗るようになります。


山口県の要職を歴任後、退職して松下村塾を再興します。民治(みんじ)は女子の教育にも熱心で、1892年には修善女学校(しゅうぜんじょがっこう)の校長となります。


弟二人(松陰30歳、敏三郎32歳)は、若くして亡くなりましたが、民治は84歳の長寿をまっとうします。


妻 亀との間には一男三女を授かりますが、長男小太郎は萩の乱で戦死。長女の豊子(とよこ)は玉木家の養子になっていた乃木希典の弟正誼(まさよし)と結婚しますが、正誼も萩の乱で戦死してしまいます。


次女 滝子の子道助は、大阪商工会議所会頭、新日本放送(現在の毎日放送)社長などを歴任し、財界で活躍しました。

杉梅太郎(すぎうめたろう)・杉民治(すぎみんじ)系図
杉梅太郎(すぎうめたろう)系図