杉敏三郎(すぎとしさぶろう)は、1845年に長門国萩松本村で誕生します。長州藩士である父 杉百合之助(すぎゆりのすけ)と母 滝(たき)の七番目の子供(末っ子)で、兄に梅太郎と寅次郎(吉田松陰)、姉に千代、寿、艶、文がいます。吉田松陰より15歳下、文より2歳下になります。
敏三郎は生まれながら聴覚と言語に障害を持っていましたが、二人の兄同様に読書を好み、学問にも関心があったようです。
容姿が兄松陰とよく似ていたようで、松陰は障害を持つ年の離れた弟をいつも心配していたそうです。
神仏を信用していなかった松陰ですが、九州遊学の際には、難病にご利益があると言われていた肥後の本妙寺(ほんみょうじ)を訪れ、加藤清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)に詣でます。ここで松陰は、弟の病が治るようにと、願いを込めて祈ったそうです。
松陰が刑死したとき、敏三郎は松下村塾の塾生とともに寄せ書きを送り「悔 かい」という一字を記します。やさしい兄との別れに敏三郎は涙します。
敏三郎のその後については、史料がほとんどなく詳細はわかっていませんが、1876年に32歳で病没したようです。