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玉木文之進(たまきぶんのしん)

玉木文之進(たまきぶんのしん)は、長州藩士杉七兵衛(すぎしちべえ)の三男として長門国萩川島で誕生します。兄に百合之助(ゆりのすけ)と大助(だいすけ)、甥に吉田松陰、姪に文がいます。


文之進は1810年生まれなので、百合之助より6歳下、松陰より20歳上になります。読書家であった七兵衛の影響で、幼いころから本を読み学問に精を出します。その甲斐あって、11歳で長州藩士玉木十右衛門(たまきじゅうえもん)の養子となります。


吉田家の養子となった甥の寅次郎(吉田松陰)の教育役となり、幼い寅次郎を厳しく指導します。文之進の指導方法は体罰も辞さないスパルタ教育でした。大人になった松陰は幼少期を振り返り「よく死ななかったものだ」と感想を述べています。


1841年になると文之進に嫡男直之進(彦介)が誕生します。翌年になると私塾である「松下村塾」を開き、寅次郎や梅太郎もそこで学問を学ぶことになりました。。


1843年に姪が生まれると「よく文をするように」との願いを込め「文」と名付けます。さらに、藩校「明倫館」の講師となった文之進は、藩士の養育にあたることになります。寅次郎や梅太郎に教えたときと同じく、ここでも文之進はスパルタ教育を行いました。


桂小五郎(かつらこごろう)や乃木希典(のぎまれすけ)も文之進から教えを受けた生徒のひとりです。のちに、明治新政府の主導者となった桂小五郎(木戸孝允)ですが、鬼教師文之進には頭が上がらなかったそうです。


1865年、倒幕を推し進める正義派と、幕府への恭順を唱える俗論派との武力衝突が起き、長州藩は内戦状態となります。


文之進の嫡男彦介は、毛利家の跡継ぎである毛利定広(もうりさだひろ)に仕えていましたが、内乱が起こると、御楯隊(みたてたい)に入隊し俗論派と戦いますが、25歳の若さで戦死してしまうのです。


嫡男を失った文之進は、乃木希典の弟 乃木真人(のぎまこと)を養子に迎えます。玉木家の跡継ぎとなった真人は、正誼(まさよし)と改名し、松陰の兄である杉梅太郎の長女豊子と結婚するのですが、1876年に起きた萩の乱に参戦して戦死します。


幕末の動乱の中、嫡男彦介に続き養子正誼も失うことになった文之進!教え子たちの多くが萩の乱に加わっていたこともあり、その責任をとって自刃する決意をします。


1876年11月、先祖の墓前で文之進は割腹します。文之進を介錯したのが姪の芳子(千代)だったとされています。文之進の遺骸は芳子(千代)と滝、文たちの手で葬られました。享年67。