山田宇右衛門(やまだうえもん)と山田亦助(やまだまたすけ)から指導を受けたことで、海防と西洋兵学に関心を持つようになった吉田松陰は、人生初となる遊学の旅にでます。
遊学の地を九州に決めた松陰は、平戸、長崎、天草、熊本を訪れ著名な学者から教えを請うとともに、西洋の学術書を多数読みその知識を膨らませていきます。
遊学を終え萩に戻った松陰は、新たな刺激を受けたことで学ぶことへの意欲がさらに高まります。松陰は江戸行きを藩に申請しこれが認められると高ぶる気持ちを抑えながら江戸に向かうのです。
江戸に到着した松陰は、山鹿素水(やまがそすい)や安積艮斎(あさかごんさい)、佐久間象山(さくましょうざん)の私塾に入門して知識を蓄えます。
特に、佐久間象山と出会えたことは松陰の大きな財産となります。当代随一の学者として江戸で評判となっていた佐久間象山のもとには各藩の秀才が教えを請うために訪れていました。
松陰も入門の許しを請うべく象山を訪ねますが、平服であっため「礼儀知らず」と一喝され追い返されます。裃(かみしも)を着用し再び象山のもとを訪ねた松陰は、先日の非礼を詫びて入門の許しを請い許されるのです。
この話しは実話ではないようですが、このような逸話が残るほど、象山の教えは松陰の思想形成に大きな役割を果たしたのです。
象山に師事した松陰は、象山の知識や見識を学ぶとともに、海岸防備の実態を調査すべく東北に旅立ちます。東北への遊学は藩の許可を得ていたのですが、通行手形の発行が間に合わず足止めをされます。
憤った松陰は何と脱藩をして東北の地に向かってしまうのです。およそ半年間、東北各地を遊学した松陰でしたが、江戸に戻ると脱藩の疑いで罪人の扱いをうけることになります。
重罪に問われかねない状況でしたが、松陰の才能を高く評価していた人たちのとりなしで、士籍剥奪と家禄没収の処分で済んだのです。実家の杉家預かりとなってしまった松陰でしたが、翌年には江戸遊学の許可がでて再び江戸で学ぶことになります。
江戸に到着した松陰は、挨拶のため親せきの家を訪ねますが、このとき大事件が勃発します!アメリカ大統領の国書を携えた艦隊4隻が浦賀に現れたのです。
藩邸に戻った松陰は、急いで浦賀まで行きその眼で黒船を見るのです。先に到着していた佐久間象山の宿を訪ね日本のとるべき対応を議論します。
象山は「日本にも黒船が必要た。造船技術や船の操縦方法を外国から学び日本の国力を上げなければならない」と松陰に説きます。
師である象山の言葉に感銘を受けた松陰は、オランダ語を学びはじめ、さらに藩主毛利敬親に意見書を提出します。松陰はこの意見書で、西洋の銃器を整え、軍制を西洋式に改めることを提唱しています。
西洋列強の巨大な軍事力の前になずずべのない日本!煮え切らない幕府の対応に焦燥感を募らせる松陰は、しだいに過激な思想へと傾倒していくのです。