1853年6月3日アメリカの艦船が浦賀沖に現れるという大事件が起こります。江戸に遊学中であった吉田松陰は、黒船の姿をその眼で見ることになります。
強大な軍事力の脅威に晒される日本!どうすればこの国を異国から守ることができるのか!松陰は思い悩みます。
松陰は攘夷論者ですが、日本の国力を上げるためなら外国から学ぶこともいとわないという考えをもっていました。
西洋の書物を読むことで情報を得ることに限界を感じていた松陰は「外国に赴き自分の眼で進んだ技術を見て学びたい!」そんな思いを抱くようになり、外国への密航を考えるようになります。
しかし、当時の日本は鎖国であり、密航が発覚すれば死罪となる大罪だったのです。それでも、高鳴る気持ちを抑えきれなくなった松陰は、長崎に来航していたロシアの軍艦に乗船すべく江戸を発ちますが、長崎に到着したときには、すでに軍艦の姿はありませんでした。
失意の中、江戸に戻った松陰は、再度来航する予定のペリー艦隊に乗船することを画策します。松陰は弟子となっていた金子重之輔に密航の計画を打ち明けます。松陰と行動をともにすることを望んだ金子重之輔と二人で次節の到来を待つことになりました。
1854年になると再度ペリー艦隊が姿を現します。ペリーは七隻の艦隊を率いて幕府に圧力をかけます。追い詰められた幕府は日米和親条約を締結して下田を開港するのです。
松陰と重之輔は「瓜中万二(うりなかまんじ)」「市木公太(いちきこうた)」と名前をかえ機会を伺っていましたが、ペリー艦隊が下田に入港したことを知ると、艦隊に乗船する計画を実行に移します。松陰と重之輔は、下田に向かう前にともに学んだ蒼龍塾の同志に計画を打ち明けます。
無謀な計画だとして多くの同志が反対しますが、松陰は「丈夫見るところあり 意を決して之をなす 富岳崩るるといえども刀水竭るるといえども また誰か之を移易せんや(富士山が崩壊しようとも、利根川の水がつきようとも私の決意はかわらないし、誰もとめることはできない)」と決意を示します。
松陰の覚悟を知った同志たちは、松陰と重之輔の計画が上手くいくことを願い二人を見送るのです。
下田に到着した松陰と重之輔は、船を盗みアメリカの艦船に近づくと「アメリカに連れて行って欲しい」と記した手紙を船員に渡します。
この手紙を読んだ通訳官のウイリアムズは「心情的には理解できるが、幕府と条約を結んだばかりの今、このふたりを連れていけば幕府との間に問題が発生する」と考え二人の乗船を拒絶したのです。
下田に送り返された松陰と重之輔は、事件が発覚する前に自首することを決めます。なぜ自首したのかについては、象山や蒼龍塾の同志に累が及ぶことを恐れたためだと言われています。
密航を企てた二人が幕府に捕えられたことを知ったペリーは「国禁を犯し命をなげうってまでも知識を得たいとする二人の探求心を賞賛し、これが日本人の特質ならこの国の前途は何と有望なものか」と航海日記(ペリー提督日本遠征記)に記したのです。
ペリーは幕府に対し、二人の処罰を軽減することを望む嘆願書を提出しました。ペリーの嘆願書が功を奏したのかは定かではありませんが、松陰と重之輔は死罪を免れ萩に送られ投獄されるのです。