吉田松陰と野山獄 金子重之輔の死
アメリカへの密航に失敗した吉田松陰と金子重之輔はボードで下田に送り返されます。黒船に乗り込む際に使った小舟が流されてしまい、見つからないことに二人は焦ります。
小舟には、身元がわかってしまう遺留品が多く残されていました。特に、佐久間象山から送られた激励の詩があり、これが幕府に押収されてしまうと、象山にも害が及ぶ可能性がありました。
松陰と重之輔は潔く自首をします。二人が危惧したとおり小舟は幕府方に発見され遺留品は押収されてしまったのです。二人は、下田の牢に投獄され、やがて江戸に送られると、伝馬町の牢に入れられます。
そこには、二人が起こした密航事件に関与したとして、佐久間象山も投獄されていのです。象山は「鎖国は時代遅れであり、志のある者が渡航して、西洋の実情をその眼で確かめることは国のためになることである」と主張します。
松陰と重之輔は「密航は自らの意思で行った事で象山は関係ない。正しいと思ったから実行した。正義と至誠があれば必ず実現できると信じている。実現できるまで何度でも繰り返す」と
述べます。
松陰と重之輔、象山は、およそ半年間投獄されたのち、国元での蟄居が命じられました。象山は松代で9年間の蟄居生活を送ることになります。
半年もの投獄生活で、劣悪な環境に置かれた重之輔は体調を崩し、咳と熱に悩まされます。萩に護送されるときは立てないほど体力が落ちていました。
松陰と重之輔は、罪人を護送するときに使用される唐丸籠に入れられ、萩へと送られます。江戸から萩までの長い道中、症状が悪化する重之輔を松陰は励まします。
何とか萩に到着した二人でしたが、国元で自宅蟄居のはずがなぜか牢屋に投獄されます。長州藩は幕府に気をつかい、蟄居処分の二人を罪人として投獄してしまったのです。
士分である松陰は野山獄に投獄されたのに対し、重之輔は劣悪な環境の岩倉獄に入れられてしまうのです。松陰は兄の梅太郎に手紙を書き、重之輔の待遇を良くしてくれるよう藩への働きかけを依頼します。
その甲斐あって若干待遇が改善されましたが、重之輔の体調は回復せず、萩に到着してからおよそ3か月で獄死してしまったのです。死因は皮膚病もしくは肺炎、結核ともいわれています。享年25。
重之輔の死を聞いた松陰は慟哭し、重之輔を巻き込んでしまったことを後悔します。松陰は食事を節制して、貯めたお金で重之輔の墓を建ててくれと依頼するのです。