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吉田松陰と高須久子(たかすひさこ)

吉田松陰が投獄された野山獄には、当時11人の囚人がいましたが、その中にたったひとりだけ女囚がいたのです。彼女の名は高須久子(たかすひさこ)といいます。


高須久子は、長州藩士高須五郎左右衛門(たかすごろうそうえもん)の娘です。高須家は大組300石取りの上士の家柄でした。高須五郎左右衛門には男子がいなかったため、娘の久子に婿(市之助)を取らせ跡継ぎとします。


久子と市之助の間には二人の女の子が誕生しますが、やがて市之助は亡くなり久子は未亡人となります。


三味線が好きだった久子は、度々三味線弾きを自宅に呼び宿泊させることもあったそうです。当時、三味線弾きの中には、身分の低い者や素行の悪い若者がいました。


「身分の卑しい者を自宅に呼び音曲にふけるとはけしからん!」という夫側の親族の訴えで久子は「借牢」となったのです。


松陰は30歳で刑死となるまで、女性とのつきあいはなかったとされていますが、この野山獄で知り合った高須久子(35~37歳)に対しては、淡い恋心を抱いていたようです。


松陰が出獄するとき、囚人が送別の句会を催しますが、久子は「鴫(しぎ)立ってあと淋しさの夜明けかな」という句を詠んでいます。松陰の号が子義(しぎ)であることから、鳥の鴫(しぎ)と子義を掛けたのです。


松陰は出獄後、野山獄に投獄されている人たちの赦免を藩の有力者に願います。その甲斐あってか多くの囚人が出獄することができたのですが、高須久子は親族の猛反対にあい、出ることができませんでした。


1858年になると、幕府老中間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を企てた罪で松陰が再び野山獄に投獄され、高須久子と再会を果たします。


翌年江戸送りになるまでおよそ5か月間、松陰と久子は獄中で同じ時間を過ごすことになったのです。


松陰の江戸送りが決まると、久子は松陰に汗拭きを贈ります。これに対し松陰は「箱根山越すとき汗の出でやせん 君を思ひてふき清めてん」という句を詠んだのです。


さらに、江戸送り当日になると、久子が「手のとはぬ 雲に樗(おうち)の咲く日かな」という句を贈ります。樗(おうち)とは、センダンという花の別名です。松陰は「一声をいかで忘れんほととぎす」と詠み、久子との別れを惜しんだのです。


明治になり野山獄が廃止されたことで久子は自由の身となります。その後の久子の消息については不明でしたが、松下村塾の門下生であった天野清三郎(あまのせいざぶろう)のちに改名して渡辺蒿蔵(わたなべこうぞう) の所有物に、高須久子作の茶碗があることが判明しました。


渡辺蒿蔵は、アメリカやイギリスで造船技術を学んだ後、帰国して長崎造船局(長崎造船所)の初代局長となった人物です。蒿蔵は陶芸を趣味にしていたらしく、その陶芸仲間に高須久子がいたようです。


高須久子作といわれている茶碗には、へらのようなもので「木のめつむ そてニをちくる一聲ニ よをうち山の ほととぎすかも」と刻んでありました。


「木の芽を摘んでいると、ほととぎすの声が聞こえ、松陰先生のことを思い出した」という意味らしいのですが「ほととぎす」は、江戸送りになる当日に松陰が久子におくった「一声をいかで忘れんほととぎす」のことを指しているものと思われます。


この茶碗は1886年に作られたとされているので、もしこの茶碗が久子のものだとすると、松陰と久子が出会った1854年当時、久子は35~37歳だったと推測されているので、67~69歳のときの作品ということになります。


松陰と久子の間に恋愛感情があったのかは推測の域をでませんが、この茶碗が本当に久子のものなら、晩年になっても松陰に対する想いを持ち続けていたことがわかります。