久坂玄瑞から文への手紙「涙袖帖 るいしゅうちょう」
杉文(すぎふみ)は、兄 吉田松陰の門下生であった久坂玄瑞と1857年12月に結婚します。文15歳、玄瑞18歳。
翌年になると玄瑞に江戸遊学の許可がおりたため、2月には江戸に向けて旅立っています。文と玄瑞の新婚生活はわずか2か月程度しかありませんでした。
1859年には松陰が刑死となり、義理の弟として松下村塾の門下生をまとめる役割を担った玄瑞は、国事に奔走するようになります。
文と玄瑞の結婚生活は7年でしたが、二人が一緒に過ごせた期間は1年にも満たなかったといわれています(数か月から2年まで諸説あります)
幼くして親、兄弟を失った玄瑞にとって、杉家の人々は大切な家族でした。寂しい思いをさせている文や杉家の人たちに多くの手紙を書いています。
玄瑞が文へ贈った手紙の現代語訳が「吉田松陰とその妹文の生涯」という書籍に掲載されています(P174~P178)
「あなたの体調が回復したようで安心しました。私もハシカを患いましたが、今ではすっかり良くなったので安心してください。梅太郎兄さんもハシカに罹ったそうですが、それも快気したそうで安心しました。」
「最近は何かと心配ごとが多く、思うようにいかないため、恩義に報いることができず恥ずかしく思います。松陰先生が生きておられれば、と残念な思いです。」
***「吉田松陰とその妹文の生涯」から一部引用***
文は玄瑞から送られくる手紙を心待ちにしていたそうです。禁門の変で玄瑞が自刃し未亡人になった文は玄瑞の手紙を大切に保存していました。
文はのちに姉寿の夫であった楫取素彦(小田村伊之助)と再婚をしますが、その際にも手紙を持参していました。素彦は玄瑞の手紙21通を装丁して三巻にまとめ「涙袖帖 るいしゅうちょう」と名付けました。
三巻のうち二巻は戦時中(太平洋戦争中)に焼失してしまったようで、玄瑞直筆の原文は一巻のみ(6通)が現存しています(楫取能彦氏所蔵)
涙袖帖の原文は、期間限定で(平成 27年4月17日から6月21日まで)萩博物館で展示されるようです。
また、涙袖帖の復刻版が山口県のマツノ書店で販売されています。