ジャンクワードドットコム・暮らし、生活百科事典

高杉晋作(たかすぎしんさく)と吉田松陰

高杉晋作(たかすぎしんさく)
*高杉晋作(たかすぎしんさく)

高杉晋作(たかすぎしんさく)は、長州藩士である父高杉小忠太(たかすぎこちゅうた)と母みちの嫡男として1839年に誕生しました。


吉田松陰より9歳年下、久坂玄瑞より1歳年上になります。高杉家は毛利元就の時代から毛利家に仕えた譜代の家臣で、大組(馬廻り)150石(のちに200石)の上士でした。


父の小忠太は藩主毛利敬親の小納戸役でしたが、真面目で実直な性格を評価され、世子(せいし)である毛利定広(もうりさだひろ)の奥番頭(のちに直目付)となります。世子とは跡継ぎのことで、奥番頭は主の側で業務を行う側近です。


晋作はそんな高杉家の嫡男として誕生したのです。晋作には三人の妹がいますが、弟はいなかったため、高杉家の跡取りとして大きな期待をかけられます。晋作は8歳になると吉松淳蔵(よしまつじゅんぞう)の寺子屋に通うようになり、ここで久坂玄瑞と出会います。


14歳になると藩校明倫館で学ぶようになりますが、保守的で時代遅れの教育に嫌気がさすと、19歳で吉田松陰の松下村塾に入塾するのです。過激な行動で名をはせた吉田松陰のもとで学ぶことを危惧した小忠太は、松下村塾に通うことを反対します。


父を尊敬していた晋作は面と向かって逆らうことはできず、夜遊びに行くふりをして松下村塾に通いました。勉強よりも武道が好きだった晋作の学問レベルは、松下村塾の中にあってはけっして高くはありませんでした。


晋作よりも1年前に入門していた久坂玄瑞とは大きな差が開いていたのです。松陰は入塾したころの晋作を「暢夫(晋作のこと)は有識の士也、しかるに学問はやからず、又すこぶる意に任じ、自用の癖あり」


「見識はあるが学問が未熟で、性格はわがままであり、自分の考えに固執する」と評しています。一方、晋作は松陰との出会いをのちにこう語っています。


「某少にして無頼撃剣を好み、一個の武人たらんと期す。年甫て十九、先師二十一回猛子に謁す、始めて読書行道の理を聞く」晋作は松陰と出会うことで、初めて学問の師と呼べる人に巡り会ったのです。


松陰は気性が激しくプライドの高かった晋作の性格を上手に利用します。何かにつけて久坂玄瑞を引き合いにだしこれを褒めたのです。負けず嫌いの晋作は「なにくそ!」と発奮し猛烈な勢いで松陰の教えを学んでいきます。


晋作が松陰のもとで学んだのは江戸へ遊学するまでの1年ほどでしたが、その間の成長は目覚ましく、気づけば玄瑞と並んで松下村塾の双璧と呼ばれるようになっていました。


1858年7月になると、晋作は江戸の昌平坂学問所(昌平黌 しょうへいこう)で学ぶため、松陰のもとから離れることになりました。松陰は旅立つ晋作に以下のような言葉を贈ります。


「余かつて同士中の年少多才なるを歴選し、日下玄瑞(久坂玄瑞のこと)を以て第一流となせり。すでにして高杉暢夫(高杉晋作のこと)を得たり。余かつて玄瑞を挙げて、以て暢夫を抑えふ、暢夫心甚だ服せざりき。未だいくばくならずして暢夫の学業にわかに長じ、議論益々たかく、同士皆ためにえりをおさむ。暢夫・玄瑞もとより相得たり。暢夫の識を以て、玄瑞の才を行ふ、気は皆それもとより有するところ、何をか為して成らざらん。暢夫よ暢夫、天下もとより才多し、然れども唯一の玄瑞失ふべからず」


「松下村塾には多くの才能ある若者が集まったが、その中で久坂玄瑞が一番だという評価でしたが、高杉晋作が入ってきて、玄瑞と競わせたところ晋作の成績がすごくよくなった。そのことで他の塾生のやる気もあがった。世の中には才能ある者がたくさんいるが、晋作にとって玄瑞は唯一無二の存在であるからこれを失うようなことがあってはならない。」


松陰は晋作の急成長を褒めるとともに、ライバルであり友でもある玄瑞と協力して事に当たるようにとアドバイスをしたのです。


晋作は江戸に遊学してからも松陰と手紙のやりとりをしていましたが、翌年になると松陰から驚くべき内容の手紙が送られてきました。その手紙には、幕府老中 間部詮勝(まなべあきかつ)を襲撃する計画が書かれていました。


晋作は江戸に滞在していた玄瑞や松下村塾の同士と相談して松陰を諌める手紙を書きます。門下生や桂小五郎、小田村伊之助ら松陰の周囲にいた人々がこぞって反対したため計画は頓挫することになります。


松陰の暴走を恐れた長州藩の首脳は、松陰を再び野山獄に投獄しますが、松陰の計画が幕府の知るところとなり江戸送りが決定するのです。江戸小伝馬町の獄舎に投獄された松陰の世話をしたのが晋作でした。


晋作は松陰のために金を工面したり、手紙や書物の差し入れなどを行っています。晋作は獄にいる松陰に「丈夫死すべき所如何」「男たる者、どう生きどう死んだらいいのでしょうか」という内容の手紙を書きます。


松陰は「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外におきて、唯、言うべきを言うのみ」


「何かを成そうとするとき、死んでも不朽だと信じればいつでも死ねばいい。生きて志が遂げられると信じれば生きればいい。これが私の考えであり、生死は度外視して、言わなければいけないことを言うだけです。」と答えます。


この松陰の言葉はその後の晋作の行動に大きな影響を与えることになります。晋作と松陰の接触を危惧した長州藩は晋作に帰国命令を出します。


萩に到着した晋作に松陰刑死の報が届きます。憤激した晋作は周布政之助に「我が師の仇を討ち候本領にも相成り候はんかと愚案仕り居り候」


「先生の仇はきっと討つ」という内容の手紙を書いています。その後の晋作は、世子毛利定広の小姓役となり、さらに上海に渡航します。


アヘン戦争で敗れ欧米列強の植民地状態となった上海の実情をみた晋作は日本の将来に危機を感じ、帰国後は松下村塾の同士とともに尊皇攘夷運動を展開します。藩の上層部に軍備の増強と公武合体の放棄を訴えますが、これが聞き入れられないとイギリス公使館を焼打ちするのです。


藩の命令で萩に戻された晋作は、藩上層部の煮え切らない態度に抗議して出家をしてしまうのです。剃髪して東行と名乗った晋作は松本村に籠ります。


1863年5月長州藩は馬関海峡(下関海峡)を通行する外国船を砲撃し攘夷を決行しますが、6月になるとアメリカとフランスから報復攻撃を受け、壇ノ浦砲台を一時占領されるという事態に陥ります。


長州藩は晋作を呼び戻し要職に就けると軍備の再編を命じます。晋作は武士以外の身分でも参加することができる部隊を編成し、これを奇兵隊(きへいたい)と名付けるのです。


奇兵隊の初代総督となった晋作ですが、その奇兵隊が長州藩の正規軍といさかいを起こしたため、責任をとらされ総督を辞任させられます。その後八月十八日の政変、池田屋事件で京から追われた長州藩では、憤激した急進派が中心となり京へ軍を進めることになります。


決起に反対する晋作は急進派のリーダー来島又兵衛の説得を試みますが、これに失敗すると脱藩を決意します。


桂小五郎は晋作に会い、とりあえず萩に戻るよう説得をします。桂の説得を受け萩に着いた晋作は脱藩の罪で野山獄に投獄されたのち自宅謹慎を命じられたのです。


その間に禁門の変が起こり、久坂玄瑞や入江九一、寺島忠三郎ら松下村塾の同士が自刃して果てます。


禁門の変で大きな打撃を受けた長州藩にさらに追い打ちをかけるように英米仏蘭の四カ国からなる連合艦隊が下関を襲撃して戦闘状態となります。


圧倒的な武力の差に惨敗を喫した長州藩は晋作を講和の使者として送り込みます。晋作は宍戸刑馬と名乗り、賠償金と彦島の租借権を求める連合艦隊の要求を拒否してこの大役を無事果たしたのです。


長州藩では幕府に恭順すべきとする俗論派が権力を掌握すると、尊王攘夷派の弾圧に乗り出します。身の危険を感じた晋作は一時九州へ逃れますが、1864年12月15日長府の功山寺(こうざんじ)で挙兵すると俗論派を討ち破り、藩論を尊王討幕へと転換させることに成功します。


幕府の第二次長州征伐では馬関口参謀として幕府軍と戦い小倉城を陥落させる活躍を見せます。しかし、肺結核に侵され吐血すると戦線を離脱して下関で療養に入りますが、1867年4月14日帰らぬ人となりました。
享年29。


辞世の句 「おもしろきこともなき世をおもしろく」