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佐世八十郎(させやそろう)・前原一誠(まえばらいっせい)

佐世八十郎(させやそろう)・前原一誠(まえばらいっせい)
*前原一誠(まえばらいっせい)・佐世八十郎(させやそろう)

佐世八十郎(させやそろう)のちの前原一誠(まえばらいっせい)は、大組士である佐世彦七(させひこしち)の嫡男として1834年に誕生しました。吉田松陰より4歳年下、久坂玄瑞よりも6歳上、高杉晋作よりも5歳上になります。


佐世家は長州藩 大組士(上級~中級武士)の家柄です。同じ大組士には周布政之助、高杉晋作、桂小五郎、井上馨などがいます。松陰や松陰の叔父 文之進の養子先である吉田家と玉木家も大組士です。


大組士は、階級としては上~中級武士に分類されますが、1000名以上いるため支給される石高には相当な開きがあり、大組士筆頭の周布家は1500石(政之助は分家で220石)ですが、佐世家は40石ほどしかありませんでした。ちなみに高杉家は200石、桂家は150石、井上家は100石、吉田家は57石、玉木家は40石です。


幼い頃から病弱で、馬から落ちて足を負傷したこともあり、このときのケガが治りきらずに持病となっていたようです。大組士といっても生活は楽ではなく、父の彦七は陶瓦(とうが)の製造や農耕なども行い生計をたてていました。


佐世八十郎が松陰門下生となったのは24歳のときで、松下村塾では最年長でした。松陰は八十郎のことを「八十勇あり、智あり、誠実人に過ぐ。その才は久坂に及ばず、その識は高杉に及ばざるも、その人物の完全なること、二人も遠く及ばず」


「学問の才や知識は久坂玄瑞や高杉晋作に及ばないものの、勇気や知略もありなんといっても誠実な人柄は二人よりも上である」と評しています。


松陰が幕府老中 間部詮勝(まなべあきかつ)要撃計画の罪で野山獄に投獄されると、これに憤慨した八十郎は、入江杉蔵や品川弥二郎とともに藩に抗議をしますが、逆に叱責され自宅謹慎を命じられます。


八十郎の将来を案じた父彦七の働きかけもあり、謹慎が明けると藩から長崎遊学の命がくだります。遊学の話しを聞いた松陰は八十郎に学問をすることを進めます。萩から長崎に旅立つ八十郎ですが、このとき大失態を犯します。


松陰は獄中で伏見要駕策を計画しこれを杉蔵、和作兄弟に実行させようとしますが、このことを知った八十郎は見送りに来てくれた松下村塾の同士にもらしてしまうのです。


これが原因で伏見要駕策は藩の知るところとなり失敗!杉蔵、和作兄弟も投獄されます。八十郎は松陰に謝罪の手紙を送りますが、激怒した松陰は八十郎や伏見要駕策に反対した門下生に絶交の宣言をします。


八十郎は再び松陰に手紙を送り「今回のことは私の責任なので、先生から絶交されるのはしかたないことですが、他の門下生と絶交するのはやめてください」と懇願します。これを見た松陰は八十郎の誠実な人柄に心を動かされ許すのです。


およそ4か月間の長崎遊学を終えた八十郎は。萩に戻り藩の西洋学問所である博習堂で学びますが、病のため床に臥せっていました。病床で松陰の死を聞いた八十郎は慟哭します。


病が快方に向かうと八十郎は久坂玄瑞と脱藩をして「航海遠略策」を唱える長井雅樂(ながいうた)の暗殺を画策しますが、これには失敗します。


1863年に起こった8月18日の政変で尊皇攘夷派の公家7人が長州藩に都落ちすると、八十郎がその御用係に任命されます。1864年12月15日長府の功山寺(こうざんじ)で高杉晋作が挙兵するとこれに加わり俗論派を討伐するのです。


高杉や桂とともに尊皇倒幕派のリーダーとなった八十郎は、1865年になると前原彦太郎に改名します(のちに一誠と改名)1866年の第二次長州征伐では、病で倒れた高杉にかわり参謀として幕府軍と戦い、戊辰戦争では山県有朋とともに参謀となり北越戦争を戦います。


明治新政府では越後府判事に任命されますが、水害に苦しむ農民の困窮をみた前原一誠は独断で地租を半減します。西洋列強に対抗するため新政府は中央集権化を進めていました。しかし、政府の方針を無視して独断で地租の半減を決めた一誠に批判がでます。


一誠は責任をとるかたちで府判事を辞任しますが、その後は政府の参議となり、大村益次郎死後は兵部大輔も兼任することとなりました。


一誠は大村益次郎が進めていた兵制改革(国民皆兵)には反対の立場ととっていたため、木戸孝允や山県有朋と対立することになり、1870年9月には職を辞して萩に帰ってしまうのです。


政府は前原と不平士族が結びつくことに危惧を感じ再三出府することを要請しますが、前原がこれにこたえることはありませんでした。


1876年10月になると熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱が起こり、それに呼応するかたちで前原一誠と奥平謙輔が蜂起します(萩の乱)


しかし、前原らの行動を事前に予測していた新政府の素早い対応に蜂起は失敗!前原は行動を起こすに至った理由を主張する場を与えるとの条件を受け入れ投降しますが、山口裁判所において弁明の機会を与えられぬまま斬首となります。享年43。


■前原一誠 辞世の句
「吾(われ)今国の為に死す。死すとも君恩に背かず。人事通塞あり。乾坤(けんこん)我が魂を弔す」


■松下村塾で前原一誠と親しかった人物
高杉晋作と品川弥二郎

高杉晋作は年長者である前原を頼りにしていたようです。高杉が功山寺で挙兵したときに真っ先に駆けつけたのが前原でした。


品川弥二郎も前原一誠と親しく、辞職した前原を説得しに萩に出向いています。また、萩の乱で投獄された前原を訪ね最期の言葉を聞いたとも言われています。


■明治維新の十傑
長州藩からは前原一誠、木戸孝允、大村益次郎、広沢真臣が選ばれています。

西郷隆盛
大久保利通
木戸孝允
小松帯刀
前原一誠
広沢真臣
大村益次郎
江藤新平
横井小楠
岩倉具視