江戸時代、周防国(すおうのくに)と長門国(ながとのくに)を領有していたのが長州藩(ちょうしゅうはん)です。長州藩は萩藩とも呼ばれ、藩主は代々毛利氏が世襲していました。
毛利氏は安芸国の国人でしたが、戦国時代に元就が現れその領地を飛躍的に拡大します。元就の子吉川元春、小早川隆景、孫の毛利輝元は豊臣秀吉に協力しさらにその領地を広げ中国地方8か国120万石を領有する大大名にまでのし上がります。
しかし、秀吉死後に起きた関ヶ原の戦いで当主輝元が西軍の総大将に担ぎ上げられ敗北すると周防国と長門国の2か国37万石に減封され江戸時代を迎えます。
*長州藩と4支藩の系図
輝元の子秀就(ひでなり)が長州藩の初代藩主となり(輝元は藩祖)、以後幕末の14代藩主元徳(もとのり)まで代々毛利氏が藩主を務めました。
長州藩には岩国藩(いわくにはん)、長府藩(ちょうふはん)、徳山藩(とくやまはん)、清末藩(きよすえはん)の4つの支藩が存在します。
関ヶ原の戦いで敗北し大幅に所領を減らされた輝元は吉川広家(吉川元春の三男)と毛利秀元(元就の四男 穂井田元清の嫡男)に所領を与えます。
広家を藩祖とするのが岩国藩で秀元を藩祖とするのが長府藩です。輝元は次男の就隆(なりたか)にも所領を与え下松藩(徳山藩)を創設します。
さらに、長府藩主 毛利秀元の三男 元知(もととも)が長府藩から1万石を与えられ清末藩を立藩します。清末藩は長州藩の支藩の支藩という位置づけになります。
長州藩と4つの支藩体制は幕末まで継続されますが、その関係は必ずしも良好なものではありませんでした。特に長州藩と岩国藩は長い間対立関係にありました。原因の発端は関ヶ原の戦いにさかのぼります。
関ヶ原当時、毛利家は石田三成を支持する安国寺恵瓊と徳川家康を支持する吉川広家が主導権を握ろうと対立していました。当主輝元は恵瓊の説得もあり西軍側につきましたが、広家は密かに家康に内通をします。
関ヶ原本戦において毛利家は、毛利秀元が15000、吉川広家が3000、安国寺恵瓊が1800の兵を従え南宮山に陣を構えます。しかし、麓に陣取った吉川広家は家康と内通していたため軍勢を動かすことをしませんでした。
広家軍に道をふさがれた毛利秀元、安国寺恵瓊も進軍することができず、関ヶ原の戦いにおいて毛利軍は東軍、西軍どちらとも戦わなかったのです。
戦後、家康は広家との間で交わした毛利家の本領安堵の約束を反故にして120万石の領地を没収し、広家に周防国と長門国37万石を与えるのです。
これに驚いた広家は自分の領地をすべて輝元に与えるよう家康に懇願します。この申し出を家康が認めたことで毛利家は存続することになったのです。
輝元側から見れば広家が余計なことをしたため、毛利家の領土が減らされたとの思いがあり、広家側からすると、恵瓊の話にのせられて西軍の総大将になってしまった輝元の思慮のなさがこの結果を招いたのだとの思いがありました。
この一件以来、長州藩と岩国藩の間には微妙な空気が流れ、長州藩は岩国藩を独立した大名とは認めず家臣扱いにします。
徳川幕府からは大名格の扱いを受けますが、長州藩は岩国藩を藩とは認めず岩国領と呼び、歴代の当主を藩主ではなく領主として扱いました。
このような経緯から江戸時代を通して長州藩と岩国藩は対立することが多かったのですが、幕末の当主 吉川経幹(つねまさ)は長州藩主毛利敬親に協力をして、四境戦争(第二次の長州征討)では芸州口の幕府軍と戦い戦果をあげます。
この功績により1868年に明治新政府によりようやく正式な藩と認められるようになり、吉川経幹が初代岩国藩主となったのです。
支藩の中で毛利宗家と親密な関係にあったのが長府藩です。長府藩3代藩主綱元(つなもと)の嫡男元倚(もとより)は長州藩5代藩主毛利吉元(もうりよしもと)となり宗家を継ぎます。
さらに、長府藩第8代藩主匡敬(まさたか)が毛利宗家を継ぎ長州藩7代藩主毛利重就(もうりしげなり)となります。
徳山藩は3代藩主毛利元次(もうりもとつぐ)の代に毛利宗家と争いを起こし一時改易状態となりますが、すぐに再興が許されます。
8代藩主 毛利広鎮(もうりひろしげ)の十男元徳は毛利敬親の養子となりのちに長州藩14代藩主となり、広鎮の六男 元僴は長州藩永代家老福原家の養子となります。この元僴が第一次長州征伐で責任を取らせれ切腹をした三家老のひとり福原越後(ふくはらえちご)です。