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長州藩の財政改革、藩政改革 毛利重就(もうりしげなり)と村田清風(むらたせうふう)

村田清風(むらたせいふう)
*村田清風(むらたせいふう)


江戸時代前期、長州藩は深刻な財政難に悩まされます。その原因のひとつが家臣たちに支給される家禄です。


120万石から37万石へと大幅な減収となった長州藩ですが、表高は37万石でも実高は50万石程度あったようです。


しかし、大幅な減封による財政の悪化は避けられず家臣のリストラを進め帰農を推奨します。一定数のリストラに成功しますが、それでも多額の家禄が藩財政を圧迫していました。


江戸時代中期になると、長府藩第8代藩主匡敬(まさたか)が跡取りのいなかった宗家を継ぎ、長州藩7代藩主毛利重就(もうりしげなり)となります。


重就は藩主に就任すると藩の財政改革を行います。藩士の家禄をカットするとともに、検地を行いおよそ6万石の増収に成功すると、この増収分の中から4万石を一般会計とは別の特別会計として蓄え、撫育方(ぶいくかた)を新設してその管理を任せます。


撫育方は毎年入ってくる税を非常時のための基金として蓄財しながら、塩田開発や港湾の新設、整備などに投資をすることで資金を運用していったのです。撫育方による資金運用は幕末まで続き大きな成果を上げることになります。


しかし、1831年長州藩領で大規模な一揆が勃発します。藩から特権を与えられた商人と農民との間で利権を巡る争いが起き、これが領内全土に広がったのです。


この一揆は日本史上最大規模の一揆とされ、10万人を超える農民が参加をしました。一揆の鎮圧とその後の復興に莫大な資金を投入せざるをえない状況となった長州藩は再び財政難に陥ります。


長州藩13代藩主毛利敬親(もうりたかちか)は村田清風(むらたせうふう)を登用して藩政改革に乗り出します。


村田清風は藩が専売していた特産物の売買を商人に認めるかわりに税を課し、さらに下関に「越荷方 こしにかた」(貿易商社のようなもの)を設立して収益を上げていきます。


これらの政策で財政の立て直しをはかるとともに、清風は人材の登用もおこないました。下級藩士でも才能があれば藩政に参加をさせることで人心の活性化を促したのです。


清風の改革は財政再建だけでなく人材登用や教育の面でも効果をあげますが、改革に反対する勢力の台頭と持病の中風の悪化により坪井九右衛門(つぼいくえもん)にその座を譲ります。


坪井九右衛門は清風の改革を支えたブレーンのひとりです。清風の政策を引き継ぎ改革を進めますが、反対派の椋梨藤太(むくなしとうた)の台頭により失脚となります。


以後、長州藩では清風の改革を支持する周布政之助(すふまさのすけ)と椋梨藤太が勢力を争うことになるのです。


毛利重就から村田清風まで、長州藩は財政再建と藩政改革に取り組んできました。その改革は幕末のころには大きな成果をあげ藩の収益は大幅に改善されました。


石高は100万石に到達していたと推測されています。潤沢な資金を手に入れた長州藩は、新式武器の調達を行い軍備を強化し兵制改革を進めます。また、これらの資金は尊皇倒幕運動を展開する藩士の活動資金にあてられ、幕府を倒す原動力となったのです。