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老中間部詮勝要撃計画(まなべあきかつようげきけいかく)

1854年3月31日徳川幕府はアメリカとの間で日米和親条約を締結し下田と函館を開港します。さらに1858年6月19日幕府は天皇の勅許なしに日米修好通商条約を調印します。


これに憤激した梅田雲浜(うめだうんぴん)、梁川星巌(やながわせいがん)ら尊皇攘夷派の志士たちは幕府への批判を一斉に強めます。


条約の調印を門下生からの手紙で知らされた吉田松陰は幕府の政治に危機感を覚えます。松陰は攘夷論者ですが単なる外国人嫌いではありません。外国の文化や文明が日本よりも進んでいるのであれば学び日本の国力を高めるべきだと考えていました。


松陰が憂慮したのは、外国の圧力にその場しのぎの対応しかできない幕府の姿勢でした。日本が進むべき将来のビジョンを示さず、外国の意のままに不平等条約を締結した幕府に、このまま国政を任せていてはやがて外国に領土を奪われてしまう!焦燥感に駆られた松陰に倒幕という思想が芽生えます。


幕府内でも大老井伊直弼の専横に反発した徳川斉昭が行動を起こします。水戸藩と幕府は13代将軍家定の後継問題で対立していたこともあり、勅許を得ない条約調印を糾弾したのです。


これに対し井伊直弼は徳川斉昭を謹慎とし、関与した大名たちを厳しく処分します。井伊直弼の強引なやり方に憤慨した梅田雲浜、水戸藩、薩摩藩の西郷吉之助たちは攘夷派の公家を動かし戊午の密勅(ごぼのみっちょく)を得ることに成功します。


密勅の内容は、勅許のないまま条約を締結した幕府への批判と、攘夷の推進を促したものでした。


天皇の密勅が対立する水戸藩に与えられたことで幕府は面目を失うことになります。これに激怒した井伊直弼は密勅に関与した人物の取り締まりを老中間部詮勝(まなべあきかつ)に命じます。


安政の大獄の始まりです。梅田雲浜は捕縛され、西郷吉之助は勤王僧月照を伴い薩摩に逃れますが、月照は入水して果て西郷吉之助は奄美大島に流されます。


幕府の大弾圧を知った吉田松陰は、倒幕の思想をさらに強固なものにします。諸悪の根源として紀州藩の家老水野忠央(みずのただなか)と大老井伊直弼にターゲットを絞ると、松浦松洞に水野忠央の暗殺を命じます。


松陰から手紙を受け取った松洞は困惑します。紀州という大藩の家老をたったひとりで襲うことなどできるはずもなく、この計画はうやむやになります。


そんな松陰の元にある情報がもたらされます。水戸や薩摩を中心とする志士が井伊直弼の殺害を計画しているというものでした。


この情報を得た松陰は志を持ち行動しようとする同士の勇気に賛辞を贈るとともに、自分たちも遅れをとってはならぬと考え、ターゲットを老中間部詮勝に変更します。


老中間部詮勝要撃計画を門下生に打ち明けた松陰は賛同する者と行動を起こします。藩の重役周布政之助(すふまさのすけ)と前田孫右衛門(まえだまごえもん)に手紙を書き、計画を実行することを宣言するとともにクーポール砲三門など武器弾薬の拝借を願いでるのです。


これに驚いた周布は松陰の暴走を止めるべく手だてを尽くしますが、松陰の決意が変わらないことを知ると再び野山獄に投獄することを決めるのです。


*間部詮勝(まなべあきかつ)
間部詮勝(まなべあきかつ)は越前鯖江藩5万石の7代藩主。越前鯖江藩は6代将軍徳川家宣の側用人として権勢をふるった間部詮房(まなべあきふさ)の弟間部詮言(まなべあきとき)が初代藩主。


6代将軍家宣と7代将軍家継の側用人として異例の出世をとげ大名となった詮房ですが、家継が死去し8代将軍に吉宗が就任すると権力を失い失脚します。


詮房が死去すると弟の詮言が跡を継ぎますが、越前国鯖江に左遷されこの地で鯖江藩を立藩します。


間部詮勝はその鯖江藩の5代藩主間部詮熙(なまべあきひろ)の五男として誕生しました。6代藩主となった兄が急死したため、跡を継ぎ7代藩主となります。


11代将軍徳川家斉の側近として老中になりますが、天保の改革を行った水野忠邦と対立して老中を辞します。


その後、井伊直弼が大老に就任すると再び登用され老中となり、安政の大獄で攘夷派の志士たちを取り締まるも、その後井伊直弼と対立し老中を罷免されます。1万石の減封となりますが、幕末を生き延び明治17年に死去しました。

老中間部詮勝(まなべあきかつ)系図
*間部詮勝系図(まなべあきかつけいず)