1858年11月6日長州藩重役周布政之助(すふまさのすけ)に吉田松陰から手紙が送られてきました。その手紙を読んだ周布は驚愕します。
幕府老中間部詮勝(まなべあきかつ)を討ち果たすという内容が書いてあったからです。同日、同じく重役の前田孫右衛門(まえだまごえもん)にも武器を用立ててほしいという旨の手紙が届きます。
周布はこれまで松陰や松下村塾の活動に一定の理解を示していましたが、さすがに老中暗殺を容認するわけにはいきませんでした。
藩首脳の中で松陰を擁護したのは前田孫右衛門のみだったとされています。周布は松陰の暴走を止めるためとりあえず野山獄へ入れることを決定します。
そもそも松陰は何でわざわざ藩の重役に間部要撃を知らせたのでしょうか。常識では考えられない行動です。
過激な行動に出ることで煮え切らない態度をとる藩上層部にゆさぶりをかけ、藩論を倒幕に向かわせようとした。もしくは、自分の行いは日本の将来を思っての行動であり、正義を実行するための計画だから、こそこそ行う必要などないと思っていた。とする説があります。
松陰の有名な言葉に「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」というものがあります。誠の心で事に当たれば、心を動かされない人はいない。という意味ですが、至誠をもって行う正義の行動なのだから、藩も認めてくれるだろうと思ったのでしょうか。
松陰の純粋すぎる志は、一般人から見れば「狂気」と映り恐ろしささえ感じます。松陰の至誠は長州藩上層部には届かなかったのです。1858年12月5日松陰に野山獄入りの藩命がくだります。
これを聞いた佐世八十郎(前原一誠)、入江杉蔵(入江九一)、品川弥二郎ら塾生8人は夜分にもかかわらず、周布ら藩重役の自宅に押しかけ猛抗議をします。藩は8人に対し自宅謹慎を申し付け騒動を抑え込むのです。
再び野山獄に入ることになった松陰ですが、その志は衰えるどころかますます盛んになります。松陰は獄中にあっても間部要撃をあきらめていませんでした。
松陰は攘夷派の公家大原重徳(おおはらしげとみ)を長州に迎え倒幕の兵をあげる策を考案しますが、小田村伊之助の反対にあい頓挫します。
さらに、江戸滞在中の久坂玄瑞、高杉晋作ら塾生からも「間部要撃は時期尚早であり自重してください」という内容の手紙が届きました。
塾生の中でも期待していた久坂、高杉に反対されたことがよほどショックだったのでしょう。松陰は「僕は忠義をする積り。諸友は功業をなす積り」「私は忠義のために行動する。君たちは自分の手柄を立てたいだけ」という有名な手紙を残します。
この手紙は後半部分が失われているため誰に宛てたものかわかっていません。怒りにまかせて誰に宛てるともなく書き綴ったのかもしれません。
信頼していた友や塾生といつの間にか考え方に大きな違いが生じてしまったことへの憤りや悲しみが感じ取れる手紙です。松陰にとって信頼できる仲間はわずかに残った塾生のみとなったのです。
松陰と塾生の間に亀裂が入ったこの頃、萩に二人の志士が現れます。大高又二郎(おおたかまたじろう)と平島武次郎(ひらしまたけじろう)です。
大高又二郎は赤穂四十七士のひとり大高源五の子孫で林田藩浪士、平島武次郎は備中浪士でともに梅田雲浜に学んだ攘夷派志士でした。
二人は長州藩主毛利敬親が参勤交代で京に立ち寄る際に、攘夷派公家と対面させ倒幕の算段を練る計画を持ち掛けます。しかし、長州藩首脳はこの提案を拒否します。
松陰は、入江杉蔵と野村和作を送り二人と面会させます。大高と平島の計画を聞いた松陰は、二人の案を基に新たな計画を立案します。それが伏見要駕策(ふしみようがさく)です。
松陰の計画は参勤交代の列を伏見で待ち受け、藩主毛利敬親の駕篭を止めて大原重徳が敬親を説得する。さらに、大原重徳を伴い御所にあがり、天皇に謁見して幕府の失政を糾弾するというものでした。
松陰は伏見要駕策を本気で実現させようとしますが、暴走する師についてくる弟子はほとんどいませんでした。唯一味方となったのが入江杉蔵と野村和作兄弟だったのです。
杉蔵と和作は師の計画を実現させるべく行動を開始しますが、ふたりには年老いた母と妹がいました。二人とも命を落としては母と妹の面倒を見るものがいなくなってしまうことから、弟の和作のみが京都に向かうことになります。
杉蔵、和作兄弟の暮らしはとても貧しく蓄えがなかったため、家財道具を売却して京までの旅費を工面したのです。しかし、伏見要駕策はほどなく藩の知るところとなり、杉蔵が捕えられ岩倉獄に投獄されます。
決死の覚悟で京にたどり着いた和作でしたが、大原重徳の協力を得ることができず、大高と平島も逃げ腰になったため計画がとん挫します。
窮した和作は京にある長州藩邸に自首をします(藩からの追手に捕縛されたとする説もあり)萩に送還された和作も兄と同じ岩倉獄に入れられ伏見要駕策は失敗に終わったのです。