井伊直弼の家臣で攘夷派志士たちの情報収集をまかされていた長野主膳(ながのしゅぜん)は、探索の過程で吉田松陰に関する情報を得ます。
直弼へ送った報告書の中で「長州藩吉田寅次郎と申す者、力量もあり、悪謀の働き抜群のよし」と記載しています。井伊直弼や長野主膳は吉田松陰を危険人物としてマークしていたのです。
さらに、安政の大獄で捕縛した梅田雲浜を拷問にかけると、雲浜の口から吉田松陰の名がでてきました。
危険人物としてマークしていた松陰と雲浜がつながっているのでは?との疑念を持った幕府は長州藩江戸藩邸に松陰の身柄を差し出すよう命じます。
幕命を伝えるべく長州藩直目付長井雅樂(ながいうた)は急ぎ萩に帰国します。1859年5月14日杉百合之助に詳細が伝えられると、兄の梅太郎が野山獄を訪れ、幕府から引き渡し命令が来たことを松陰に知らせるのです。
知らせを聞いた松陰と家族、門下生らは、もしかしたら間部要撃計画や伏見要駕策が幕府の知るところとなったのでは?と考えます。
これらの計画を幕府が知っているのなら、江戸での詮議は厳しいものとなり、重い罰が与えられることを覚悟しなければなりません。最悪の場合死罪、よくても遠島の可能性があり二度と萩に戻ることはできないと思ったのです。
松陰の過激な思想についていけず、疎遠になっていた塾生や友人たちが野山獄を訪れるようになります。松陰はこれまでのわだかまりを捨て、快く訪問を受け入れました。
その中のひとりに松浦松洞(まつうらしょうどう)がいました。松浦松洞は伏見要駕策に反対し松陰とは少し距離をとっていたのですが、江戸送りを聞くと、いてもたってもいられず野山獄を訪ねたのです。
松洞には絵心があったため、松陰の肖像画を描くことになりました。肖像画を7~8点描いたといわれていますが、現存しているのは6点のみです。
これらの肖像画は、松陰の面影を知ることができる貴重な史料となっています。しかし、松洞は似せて描くことに苦慮したようで、何度も描き松陰は自分の姿を鏡で見ながら松洞の絵をチェックしたそうです。
小田村伊之助は完成した肖像画に賛を入れることを勧めます。賛は絵の中に書き添える詩や句のことで、松陰が自賛することで、松洞の描いた肖像画を松陰が認めた(お墨付きを与えた)ということになるからです。
松陰はこれらの肖像画に自賛を入れて完成させたのです。現存している松浦松洞が描いた松陰肖像画6点については「維新史回廊だより」に詳細な記述があるのでそちらをご覧ください。6点の肖像画を見比べることができます。
*吉田松陰肖像画 自賛部分