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吉田松陰・家族との別れ 涙松「帰らじと思いさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな」

1859年5月14日吉田松陰の江戸送りが萩に伝えられます。松陰が萩を出立した日は5月25日ですが、その間多くの友人や塾生が野山獄を訪れ松陰との別れを惜しみます。


小田村伊之助や久坂玄瑞は、江戸に旅発つ前に何とか松陰を実家に帰らせたいと考え手を尽くします


この願いを野山獄の司獄(獄史)福川犀之助(ふくがわさいのすけ)が聞き入れ、出立の前日に一晩だけ帰ることが許されたのです。


福川犀之助は松陰の兄梅太郎と顔見知りであったことから、投獄された松陰に何かと便宜を図ってくれました。


一回目の投獄のとき、松陰が囚人相手に講義を行う事ができたのも、福川犀之助の助力があったからです。松陰を尊敬するようになった犀之助は松陰の門人となっていました。


そんな経緯もあり小田村伊之助や久坂玄瑞の願いを聞き入れ松陰を実家に帰したのです。もちろんこの行為は藩から許可を得たものではなく犀之助の独断で決定したことです。


のちに藩の知るところとなり犀之助は司獄の職を罷免され、「遠慮」の罰を受けることになります。


思いがけない松陰の帰宅に家族は喜びます。父百合之助、母滝、兄梅太郎、弟敏三郎、三人の妹(千代、寿、文)が松陰と最期の夜を過ごしたのです。このときの様子を妹の千代が「婦人之友」で語っています。


「父は申すまでもなく、母も気丈な人でしたから、心には定めし不安もあったので御座いましょうが、涙一滴こぼしもせず、私共に致しましても、たとへいかなる事があるとも、かかる場合に涙をこぼすと申すことは、武士の家に生まれた身としてこの上もない恥ずかしい女々しいことと考えて居りますから、胸は裂けるほどに思いましても、誰れも泣きは致しませんでした」


「生きて戻ることができないのでは・・・」不安を抱えながらも気丈に振る舞う家族の姿が痛々しくもあります。


お風呂に入っている松陰のために母の滝が湯加減を見に来ますが、このとき松陰に「江戸から戻ってもう一度元気な顔をみせておくれ」と語りかけると「お母さん、必ず元気な顔をお見せしますから、安心して待っていてください」と答えたそうです。


家族と一夜を過ごした松陰は翌朝に杉家を出ます。別れの盃をかわした松陰は玄関先で見送る家族に挨拶をすると、護送役人の用意した乗り物に入り野山獄に戻っていきました。


獄で腰縄をかけられ、囚人が護送されるときに使用される唐丸籠に入れられ野山獄を出立します。


松陰の護送には役人など関係者20人以上が付き添ったそうです。萩城下を出てしばらく進むと大屋と呼ばれる峠にさしかかります。


この場所には松並木があり、萩の町が一望できるのですが、ここを過ぎるともう二度と萩を見ることができなくなります。


そのため、別れを惜しむ人が涙を流すことから涙松と呼ばれるようになりました。籠が涙松にさしかかると松陰は惜別の歌を詠みます。


「帰らじと思いさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな」

「もう帰ってくることはないだろうと覚悟を決めた旅であるから、ひときわ涙がでてしまう」


故郷の萩を離れた松陰は6月25日に江戸に到着しました。長州藩上屋敷に入った松陰!7月9日運命を決める取り調べが始まったのです。