吉田松陰処刑!松陰の最期を目撃した小幡高政、山田浅右衛門(首斬りあさえもん)の証言
1859年10月25日「留魂録」の執筆に取り掛かった吉田松陰は、26日の黄昏(夕暮時)にこれを完成させます。
松陰は27日の朝に評定所に呼び出され死罪を申し渡されます。断罪書には「殉国の思いを持ち決死の覚悟で間部詮勝の駕籠へ近づき自らの主張を申し立てる計画をたてたことは、幕府を憚らない不敬の行為であり、法や道理にそむいた罪により死罪を申しわたす」と記されていました。
死罪の宣告を受けた松陰の様子を目撃した人物が長州藩公用人であった小幡高政です。長州藩の代表として判決の場に立ち会った高政はこのときの松陰の様子を語っています。
「髪の毛や髭はぼうぼうと伸びていたが、その眼光は鋭く光りまるで別人のようでした。その姿には一種の凄味さえ感じました。死罪を申し渡され【立ちませい!】と役人に促されると、松陰は立ち上がり私のほうを向いて微笑みながら一礼すると、潜り戸(くぐりど)から出ていきました。
その直後に朗々と漢詩を詠む声が聞こえたのです。その漢詩は【吾今国のために死す 死して君親にそむかず 悠遊天地の事 鑑照明神にあり】というものでした。評定所の役人や護送役人たちは松陰の漢詩に聞き入っていましたが、朗詠が終わると我に返り松陰を駕籠に乗せて伝馬町の獄まで連れて行ったのです」
松陰の最期については、高政の他にも数人が証言をしています。そのうちのひとりが八丁堀同心の吉本平三郎です。吉本平三郎は松陰の最期を漢学者の依田学海(よだがっかい)に語っています。
依田学海は下総国佐倉藩士でのちに佐倉藩江戸留守居役、佐倉藩権大参事の要職に就いた人物です。依田は松陰が処刑された2日後に同心の吉本平三郎から詳細を聞いています。
それによると、「奉行が死罪の申し渡しをすると【かしこまりました】とうやうやしく答え、評定所を出るときには、介添えの獄吏(ごくり)に【長い間お世話になりました】とやさしい口調で礼を述べ、さらに処刑される直前に鼻をかんでから、心静かに首を打たれました。これほど平常心で死んでいった人を見たことはない」と証言しています。
さらに松陰の首を打った山田浅右衛門(やまだあさえもん)は、松村介石(まつむらかいせき)に松陰の最期を語っています。
松村介石は播磨国明石藩士で明治になりキリスト教の洗礼を受け伝道に人生を捧げた人物です(明治キリスト教界四村と呼ばれる)
浅右衛門は松陰のことを知らなかったようですが、刑場の場に現れた松陰は実に悠々としていて、役人に【御苦労様】と挨拶をして端座(たんざ)したそうです。
その堂々とした態度に役人も感嘆し、首を打たれる瞬間まで落ち着いていた松陰を真にあっぱれであったと証言しています。
これらの証言とは正反対の証言も存在します。世古格太郎という人物が記した「唱義見聞録 しょうぎけんぶんろく」には「誠に囚人気息荒々敷き体なりき」と記されています。
死罪を申し渡された松陰が取り乱し興奮していたと記録されています。伝馬町に投獄されていた世古格太郎は、松陰が処刑された当日に評定所に呼び出されていたようです。
そこで松陰を目撃したのですが、世古の証言では、役人が松陰に「覚悟はよろしいですか」と聞くと松陰が「もとより覚悟の事でございます。おのおの方にもいろいろとお世話になりました」と答え駕籠に押し込まれ評定所から出ていったそうです。
世古が目撃したのはここまでで、「松陰が取り乱し興奮していたと」というのは、世古が直接見た訳ではなく役人からの又聞きで、その役人の名前もわかっていません。
*山田浅右衛門(やまだあさえもん)
山田浅右衛門は別名「首斬り浅右衛門」と呼ばれ、徳川幕府で御様御用(おためしごよう)の役に就いていた人物です。
御様御用は刀剣の試し斬りをする役目ですが、同時に罪人の首を打つ役割も担っていました。山田家の当主は代々「浅右衛門」もしくは「朝右衛門」を名乗っています。
浅右衛門は徳川家の家臣ではない(浪人扱い)ため、幕府から禄を受けてはいません。主な収入源は刀剣の試し斬り、刀剣の鑑定でした。
そのため、斬った罪人の遺体は浅右衛門に下げ渡され、その遺体で試し斬りを行うことで礼金を受け取り収入にしていたのです。試し斬りの依頼が絶えることはなかったそうで、浅右衛門の家はとても裕福でした。
御様御用の役目は初代浅右衛門以降代々山田家が務めていましたが、人を斬る稼業のため剣の技量が要求されます。
そのため、実子相続ではなく、弟子の中から技量のある者が家を継いだのです。吉田松陰の首を斬ったのは7代目浅右衛門吉利(よしとし)です。
山田家は明治新政府のもとでも首切り役に就いていましたが、刑法改正により斬首刑が廃止され絞首刑になると職を解かれ廃業となりました。