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吉田松陰の遺書(遺言)・留魂録(りゅうこんろく)身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置まし大和魂

吉田松陰は1859年10月27日に斬首となります。10月16日に行われた四回目の取り調べにおいて、幕府の強い殺意を感じ取った松陰は、供述書に署名をし生きる事を諦めます。


翌17日尾寺新之丞に宛てた手紙では「やはり幕府は私の首を取るつもりなのであろう。橋本佐内や頼三樹三郎と同じく死罪となるならそれで本望」と述べています。


10月20日になると家族宛て(父 百合之助、兄 梅太郎、叔父 文之進)に別れの手紙(永訣の書)を書き始めます。


「子どもが親を思う気持ち以上に親が子を思う気持ちはずっと大きいものです。それなのにこのような事態となり両親はどれほど悲しんでいることでしょう。」


「しかし、萩を立つときに私の心のうちをお話し申し上げたので、思い残すことは何もありません」


「幕府に私の言葉は届きませんでしたが、日本には天皇さまがいらっしゃり、忠義の心をもった志士たちがたくさんいます。ですから、日本の将来についてあまり悲観的に考えないようにしてください。くれぐれもお体を大切にしてどうか長生きしてください」


「杉家のお母様と吉田家のお母様も、くれぐれもお体を大切にされますよう、お祈りしております。三人の妹たちには五月に書き記したことを忘れないよう申し聞かせてやってください。人の死を悲しむのではなく、自分がなすべきことをなすそれが最も大切なことなのです」


「私の首は江戸に葬るようお願いします。私が使っていた愛用の硯(すずり)と手紙を送るので供養してください」


「位牌には【松陰二十一回猛子】とのみお書きくださるようお願いいたします」


永訣の書と同じ日に、門下生の尾寺新之丞と飯田正伯にも手紙を書いています。その内容は、遺体の処理に費用がかかるので周布政之助から10両を借りること。


獄中で世話になった人たちにお礼としてお金を渡すよう依頼しています。特に牢名主の沼崎吉五郎(ぬまざききちごろう)には3両を渡すよう依頼しています。


この沼崎吉五郎こそこのあとに書きあげる「留魂録 りゅうこんろく」を託した人物なのです。この3両には「留魂録」の保管料としての意味合いがあったのかもしれません。


そして、25日からいよいよ「留魂録」の執筆に取り掛かります。留魂録は、四つ折りにした薄葉半紙の19面を使い執筆されました。


細字で書かれた5千字にもおよぶ松陰の言葉は、時代を超えて多くの人々の心をゆさぶります。


松陰から直接薫陶を受けた門下生たちがこの留魂録を読んだときの無念さはいかほどであったか。その後の彼らの行動を見ればわかります。


留魂録の冒頭には辞世の句と十月念五日 二十一回猛士と署名がしてあります。


「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置まし大和魂」

「たとえ私の身が武蔵の野辺(野原や埋葬の意味)で朽ちはてても魂だけは永遠にとどまり、この国を守ることでしょう」


歴史上の人物や偉人たちがさまざまな辞世の句を残していますが、その中でも松陰の句は私たちの心を打ちます。


幕末という比較的近い時代に生きた人なので、親近感がわくということもありますが、幕末から明治という日本の大変革期の中にあって、自らの行動により弟子たちにその模範を示した松陰!


吉田松陰が嫌いな人でもこの辞世の句と留魂録を読めば、何かしら感ずるものがあるのではないでしょうか。


留魂録の本編は十六章で構成され、最後に五首の和歌が詠まれています。

第一章 投獄されてからの心の変化
第二章 評定所での取り調べについて
第三章 評定所での陳述
第四章 でっちあげの供述書について
第五章 7月9日の取り調べにおける間部要撃と要諌
第六章 9月5日と10月5日の取り調べにおける奉行との論争
第七章 生と死のはざま 死の覚悟
第八章 松陰の死生観 人生の四季
第九章 獄中で親交のあった同士について
第十章 堀江克之介について
第十一章 小林民部について
第十二章 長谷川宗右衛門、長谷川速水について
第十三章 勝野保三郎について
第十四章 橋本左内について
第十五章 鮎沢伊太夫について
第十六章 獄中で親交のあった同士と松下村塾門下生との交流について


和歌五首
心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ思ひ残せることなかりけり
呼びだしの声まつ外(ほか)に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇(あが)めて夷(えびす)払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友(ども)とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷(えびす)をぞ攘(はら)はんこころ吾れ忘れめや。


心の内にあった思いを書き残したのでもう思い残すことはない
刑場へいざなう呼び出しの声を待つ以外に今の自分には待つものは何もない
首を討たれる私を哀れだと思う人は天皇陛下を崇めて夷敵(いてき)を打ち払ってくれ
愚かな私を友だと思って褒めてくれる人は、私の友たちのことも褒めてほしいものです
7回生まれかわって夷敵(いてき)を打ち払う!その心を忘れることは決してない

十月二十六日黄昏書
二十一回猛士

10月26日の黄昏(夕暮時)にしるす。
二十一回猛士


留魂録のクライマックスといえる部分が第八章松陰の死生観です。第七章で生と死のはざまで揺れ動く心境を語り、やがて死を覚悟した松陰!第八章では、人生を四季の循環に例え死を目前にしたこころの内をあらわしています。


■留魂録第八章
今日死を決するの安心は四時(しじ)の順還に於(おい)て得(う)る所あり。蓋(けだ)し彼(か)の禾稼(かか)を見るに、春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵(ぞう)す。


秋冬に至れば人皆其の歳功(さいこう)の成るを悦び、酒を造り醴(れい)を造り、村野歓声(そんやかんせい)あり。未(いま)だ曽(かつ)て西成に臨みて歳功(さいこう)の終を哀しむものを聞かず。


吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼(かか)の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。


然(しか)れども義卿の身を以て云へば、是亦(これまた)秀実(しゅうじつ)の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿(じんじゅ)は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非(あら)ず。


十歳にして死する者は十歳中自(おのずか)ら四時あり。二十は自らニ十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。


十歳を以て短しとするはけいこをして霊椿(れいちん)たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をしてけいこたらしめんと欲するなり。


斉(ひと)しく命に達せんとす。義卿三十、四時已(すで)に備はる、亦秀亦実其秕(またしゅうまたじつそのしいな)たると其の粟たると吾が知る所に非ず。


若し同志の士其の微衷(びちゅう)を憐み継紹(けいしょう)の人あらば、乃(すなわ)ち後来(こうらい)の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年(としある)に恥ぢざるなり。


同志其是(どうしそれこれ)を考思(こうし)せよ。


■現代語訳
今日私は死を覚悟しましたが、心の中はとても穏やかなのです。それは四季の循環について考え得るものがあったからです。


穀物は春に種をまき、夏に苗を植え、秋になると刈り取って、冬の間は蓄える。秋や冬になると人々は収穫を喜び、酒を造り、甘酒を造り、村々は歓びの声で満ち溢れる。


収穫の時を迎え、その年の仕事が終わってしまうと悲しんでいる者がいるなどという話を私はこれまで聞いたことがない。


私は三十歳だが、何も成し遂げることなく死のうとしている。実る前の穀物と同じような状態だから、死を迎えることは惜しいといえるかもしれない。


だが、私自身について言えば、今が実りのときであり、悲しむことなどないのです。なぜなら、寿命というのは人それぞれ違い、穀物をめぐる四季とは同じではないのです。


十歳で死ぬものには十回の四季がある。二十歳で死ぬものには二十回の四季がある。三十歳で死ぬものには三十回の四季がある。五十歳には五十回、百歳には百回の四季があるのです。


十歳で命が尽き、それを短命というのは、蝉(せみ)と霊木の椿を比べるようなものです。また、百歳を長生きだというのも、椿と蝉を同じ尺度で測ろうとしているようなものなのです。


どちらも天寿をまっとうしたということにはならないのです。私は三十歳、すでに三十回の四季が訪れ、花も実もつけている。それがもみ殻なのか粟の実なのか私の知るところではない。


もし同志諸君の中に我が志を継いでくれる人がいるなら、その種は絶えることなく毎年実をつけることだろう。


同志諸君、このことをよく考えて欲しい。


松陰は処刑の前日(夕暮時)に留魂録を書き上げます。用心深い松陰は幕府に押収されたときのことを考え、同じものを二部つくりこれを牢名主である沼崎吉五郎に託します。


一部は松下村塾門下生の手に渡るよう沼崎に手配をしてもらい、もう一部は沼崎自ら保管してくれるよう依頼したのです。


留魂録は無事萩に届けられ、門下生と親しい人たちの間で回覧されます。しかし、幕末の動乱の中でいつしか行方がわからなくなってしまうのです。


写本がいくつか残りましたが、松陰自筆の留魂録はもう二度と見ることはできないはずでした。


しかし、松陰の死後15年が経過した1876年 松陰自筆の留魂録が再びその姿を現したのです。

吉田松陰 留魂録 現代語訳

*留魂録の現代語訳を読みたい方には講談社学術文庫の「吉田松陰 留魂録 全訳注 古川薫」をおすすめします。


原文(平仮名、ルビ表記)と現代語訳が掲載されています。現代語訳がわかりやすい言葉で書かれています。


史伝・吉田松陰(P120~P213)では松陰の生涯がコンパクトにまとめられています。