留魂録(りゅうこんろく)沼崎吉五郎(ぬまざききちごろう)と野村靖(のむらやすし)
吉田松陰は処刑の前々日から留魂録(りゅうこんろく)の執筆に取り掛かり前日の夕方に完成させます。留魂録は松下村塾門下生に宛てた松陰の遺言です。
何としてでも自分のメッセージを弟子たちに届けたい松陰は、万が一幕府に没収されたときのことを考え留魂録を二部作成しました。
松陰は牢名主であった沼崎吉五郎(ぬまざききちごろう)に留魂録を託します。沼崎吉五郎は元福島藩士で殺人の嫌疑(詳細は不明)で投獄されすでに5年が経過していました。
松陰はこの沼崎という人物を「篤志の人」と評していることから、それなりに信用していたのでしょう。
この人物なら必ず弟子たちに届けてくれると確信していたのでしょうか?それとも彼しか頼る人がいなかったのでしょうか。留魂録を託した松陰は翌日に処刑され30年の生涯を閉じます。
沼崎は獄卒を使い一部を長州藩邸に届けさせ、もう一部は自分で保管します。その後三宅島へ流された沼崎の消息はそこで途絶えます。
長州藩邸に届けられた留魂録は、門下生の飯田正伯(いいだしょうはく)から萩の門下生の元に送られます。留魂録は門外不出とされ、塾生の間で回覧されますが、幕末の動乱の中でいつしか行方がわからなくなってしまうのです。
門下生による写本が数点残りましたが、松陰直筆の留魂録はもう二度と見ることはできない!誰もがそう思っていたのです。しかし、松陰の死後17年が経過した1876年 松陰直筆の留魂録が再びその姿を現したのです。
かつて、松陰の伏見要駕策(ふしみようがさく)を実行しようとして捕縛され、兄とともに岩倉獄に投獄された野村和作は幕末の動乱を生き抜き(兄の入江九一は禁門の変で自害)、名を野村靖(のむらやすし)と改め神奈川県権令(ごんれい)となっていました(権令は現在でいえば副知事にあたる役職)
その野村靖のもとを初老の男が訪ねてきたのです。その男は野村に「私は吉田先生と同じ獄に入っていた沼崎吉五郎という者です」と挨拶をし、懐から薄汚れた冊子を取り出すとそれを野村に渡したのです。
野村が手に取った冊子に目を通すと、そこには松陰直筆の文字が記されていました。それこそ松陰が死の前日に沼崎に託した真筆の留魂録だったのです!
驚く野村に「先生が殉難される前日に託されたものです。【郷里に無事届くかわからないので、あなたにこれを託します。もし出獄する日がきたら、この遺書を長州人に渡してもらいたい。長州の人であれば私のことを知っているはずなので、長州人ならだれでもよい】とのことでした。あなたが長州人であると聞いたのでこれをお渡しするために尋ねたのです」と沼崎は事の詳細を話したのです。
沼崎は留魂録の他にも松陰自筆の「諸友に語(つ)ぐる書」も持参していたため、これも野村に寄贈しています。
留魂録の存在はすでに知られていましたが、「諸友に語(つ)ぐる書」に関しては、そのような書があったこと自体知られておらず新発見だったのです。
「諸友に語(つ)ぐる書」は書きかけの書で、日付が記載されていないため、いつ執筆されたものかわからないのですが、留魂録の前に書かれたものと推測されています。
沼崎から「留魂録」と「諸友に語ぐる書」を受け取った野村は吉田庫三(よしだくらぞう)に手紙を送り、受けとるまでの事情を説明しています。吉田庫三は松陰の甥に当たる人物(松陰の一番上の妹千代の息子)です。
野村は1891年に萩・松陰神社に留魂録を奉納しています。沼崎の訪問から15年も経過してからでした。その間、留魂録がどこで保管されていたのかよくわかっていませんが、野村は松陰の功績を世間に知ってもらうための活動を行っていたので、松陰の遺品などの保管も任されていたのかもしれません。
松陰との約束を守り17年もの間留魂録を守り抜いた沼崎吉五郎のその後の消息はわかっていません。
現在私たちが松陰真筆の留魂録を目にすることができるのは沼崎の功績なのですが、沼崎に関する史料が残っていないため、どのような人物であったかは謎となっています。
野村は沼崎を見たときの印象を「老鄙夫 ろうひふ」と手記に記しています。「鄙夫」とは卑しい男、身分の低い男を意味する言葉なので、良い印象ではなかったようです。
亡き師の遺書ともいえる留魂録を17年もの間守ってくれた人に対する言葉としては適切ではないように思えます。
「留魂録」が野村のもとに届けれた経緯についてはいくつかの謎があるのです。
沼崎が野村のもとを訪ねたのは1876年ですが、その2年前に恩赦によりその罪が許され本土の土を踏んでいます。
沼崎が流されていた間に幕府は倒れ新しい政府が誕生していたのです。かつて松陰の門下生であった人たちの多くが新政府の要職についていました。沼崎は松陰から託された留魂録をなぜすぐに野村に届けなかったのでしょうか?
実は三宅島から戻った直後に沼崎は楫取素彦(かとりもとひこ)に接触をしていたようです。そのときの状況を楫取は日記に記しています。
沼崎は、仲介人を経由して楫取素彦(小田村伊之助)に留魂録を届けますが、なぜか楫取は留魂録を沼崎に返しています。その際に2円を沼崎に渡しているのです。さらに事の詳細を野村にも知らせていたようです。
楫取から返却された留魂録を持った沼崎が野村のもとを訪ねたのがそれから2年後のことです。つまり、野村は沼崎のことや留魂録の存在を楫取からの報告で知っていたことになります。
なぜ、楫取は留魂録を返却したのでしょうか?
なぜ、2年も経ってから野村を訪ねたのでしょうか?
なぜ、野村は「鄙夫」という言葉を使ったのでしょうか?
それらを考慮すると、沼崎は留魂録を買い取ってくれるよう楫取と交渉したのではないでしょうか?その金額が大き過ぎたため買い取ることができなかった楫取は2円という金額を添えて留魂録を返却したのです。
明治初期の1円は現在の数万~数十万円と推測されます。足柄県の要職に就いていた楫取にとって2円はそれほど大きな金額ではありませんが、これまで保管してくれたお礼だったのかもしれません。
それから2年後に沼崎は野村を訪ねたことになっていますが、この間沼崎がどこで何をしていたかわかっていません。もしかしたら、野村とすでに接触をしていたのではないでしょうか。
留魂録の買い取り金額の交渉をしていた可能性もあり、金額で折り合いがついたため、野村のもとを訪ね「留魂録」と「諸友に語ぐる書」を渡したと推測することもできます。
お金を払い買い取ったことを世間に知られたくない野村は、初めて対面して留魂録を贈呈されたことにしたのではないでしょうか。もちろんこれはあくまでも推測にすぎません。
沼崎吉五郎は謎の多い人物であり、詳細な史料が残っていないのでいろいろな解釈ができるのです。
仮に沼崎が金銭を要求したとしても、それが悪いことでしょうか?元罪人が生きていくには厳しい時代であり、生活も苦しかったことが想像できます。
島流しにあいながら17年もの間、留魂録を保持していたことに間違いはなく、私たちが松陰真筆の留魂録を見ることができるのは沼崎のおかげなのですから、それなりの報酬を受けても非難されることはないでしょう。
松陰の遺書とも言うべき留魂録を託された沼崎!17年もの間留魂録を持ち続け松陰との約束を守った「篤志の人」
その留魂録を受け取った人物が、最後まで松陰と行動をともにした愛弟子野村靖!
この美しいストーリーで完結して欲しい!という気持ちと、本当にそうだったのか?という疑念が交錯します。
果たして沼崎吉五郎は「篤志の人」だったのか、新しい史料の発見が期待されます。
*吉田松陰の留魂録
松陰真筆の留魂録は、萩・松陰神社宝物殿「至誠館」に展示されています。「諸友に語ぐる書」「永訣の書」も展示されているので、興味のある方は足を運んでみてはいかがでしょうか。