吉田松陰の墓
1859年10月27日、吉田松陰は伝馬町の刑場でその生涯を終えます。享年30。
松陰の処刑を知った門下生の飯田正伯(いいだしょうはく)と尾寺新之丞(おでらしんのじょう)は遺体を下げ渡すよう幕府に願い出ます。
しぶる獄吏に賄賂をつかませ承諾させると、藩邸に戻り桂小五郎と伊藤利助(伊藤博文)に状況を報告します。
10月29日、桂小五郎、伊藤利助、飯田正伯、尾寺新之丞の4人は、大甕(おおがめ)と石を持参して小塚原(こづかっぱら)の回向院(えこういん)に出向きます。
小屋の中から運び出されてきた四斗桶を見ると、その中に松陰の遺体が入っていました。裃(かみしも)は盗まれていたため全裸でしたが、顔色はよくまるで生きているかのようだったそうです。
桂と尾寺が柄杓(ひしゃく)の水で血を流し清めると、飯田が乱れた髪を整えます。伊藤が柄杓で首と胴をつなごうとしますが、役人に注意されたため断念します。
それぞれ着用していた衣服を松陰に着せ、持参した大甕に入れます。遺言にしたがい、すでに回向院に葬られていた橋本佐内の墓の隣に埋葬します。
この日は盛り土をしてその上に石を置いただけでしたが、後日頼んでおいた墓石が完成したため、飯田と尾寺が再び回向院を訪れ墓石を建て松陰の魂を弔ったのです。
しかし、「幕府に逆らった罪人の墓を建てることは認めない」とする幕府の命令により、安政の大獄で処刑された人たちの墓はすべて破壊されてしまいます。
1860年萩で百日祭が行われます。松陰の家族や萩在中の門下生によって松陰の墓が建てられ遺髪が納められました。
1863年幕府は大赦令を出します。これにより安政の大獄で犠牲になった人たちの罪が許されたのです。
罪人として回向院に葬られていた松陰の墓を改葬するため、高杉晋作等江戸在中の門下生が集まり、松陰の遺骨を棺に入れて運び出します。
江戸近郊の世田谷若林村に長州藩の抱屋敷(かかえやしき)があったため、この地に松陰の亡骸を埋葬することにしたのです。しかし、ここも禁門の変以降幕末の動乱の中で幕府の手の者により破壊されてしまうのです。
明治になり木戸孝允(桂小五郎)が荒らされた地を修復して、墓標を建て鳥居を寄贈します。さらに、1882年には門下生によって松陰神社が建立され現在に至ります(東京・松陰神社)
松陰の遺言により愛用していた赤間硯は萩の家族のもとに送られます。1890年になると兄の民治(梅太郎)は杉家の敷地内に土蔵造りの祠(ほこら)を建て硯と書簡を祀りました。
1907年になると伊藤博文、野村靖等門下生の請願により祠の近くに「萩・松陰神社」が建立されます。赤間硯と書簡を移し「萩・松陰神社」の御神体としたのです。
吉田松陰のお墓4カ所
回向院(現在は墓石のみ)東京都荒川区南千住5-33-13
東京・松陰神社(遺骨)東京都世田谷区若林4-35-1
萩・松陰神社(愛用の硯)山口県萩市椿東1537
萩・吉田家墓地(遺髪)山口県萩市椿東 バス停「松陰誕生地前」