1860年3月24日幕府大老井伊直弼(いいなおすけ)が江戸城桜田門外で尊皇派の浪士たちに襲撃され命を落とします。
この桜田門外の変は、時代が動く転機となった大事件であり、ドラマや映画の題材として度々取り上げられていますが、将軍継嗣問題に端を発した幕府と水戸藩の確執と、その結果起きた安政の大獄による弾圧に憤慨した水戸藩急進派による復讐。
このような流れで紹介されることが多いのですが、実際は薩摩藩なども加わった大がかりなクーデターであったのです。
最初の計画では井伊直弼と安藤信正(あんどうのぶまさ)を襲撃して討ち果たし、それに呼応して薩摩藩兵三千と鳥取藩が兵を挙げ、朝廷を守り幕府の政道を正すというものでした。
しかし、水戸藩では急進派内における意見の対立が起きていて、必ずしも計画は順調に進んでいませんでした。藩の上層部に計画がもれることを恐れた高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之助ら急進派の志士たちは、脱藩をしておのおのが江戸を目指すことにしたのです。
急進派の藩士たちが次々と水戸から出奔していることを知った徳川斉昭と藩上層部は、暴発を警戒しこのことを幕府に知らせ取り締まりを強化するよう進言するのです。
取り締まりが厳しくなったことで、水戸から出奔できた志士たちは予定の半分以下となります。計画が見直されることになり、標的を井伊直弼ひとりにしたのです。
水戸脱藩浪士たちは、彦根藩の藩邸を襲うべく情報を集めますが、警備が予想以上に厳しくこの人数では到底無理だと判断し、登城の途中に襲撃することに変更します。
この計画に参加した者は
金子孫二郎
高橋多一郎
高橋庄左衛門
●関鉄之助
●岡部三十郎
●森五六郎
●稲田重蔵
●山口辰之介
●鯉淵要人
●広岡子之次郎
●斎藤監物
●佐野竹之助
●蓮田市五郎
●黒澤忠三郎
●大関和七郎
●杉山弥一郎
●森山繁之介
●海後磋磯之介
●広木松之介
●増子金八
●有村次左衛門
有村雄助
佐藤鉄三郎
川崎孫四郎
小室治作
大貫多介
島男也
小野寺慵斎
宮田瀬兵衛
●は襲撃に加わった者
計画の総指揮をとるのは金子孫二郎、薩摩藩との調整役が高橋多一郎、現場の指揮は関鉄之助、見届け人が岡部三十郎と決まります。
決行の前夜、浪士たちは品川にある「稲葉屋」に集合します。薩摩藩邸が三田にあったことから、品川は薩摩藩士が懇意にしている店が多くありました。
「稲葉屋」もよく利用していた引手茶屋(遊郭で遊ぶ客を案内する茶屋)であり、薩摩藩士の有村雄助と店主は顔見知りであったため集合場所に選んだようです。
その後、「稲葉屋」の近所にある妓楼「土蔵相模」で別れの杯を交わした浪士たちは、襲撃の最終確認をして朝を迎えます。愛宕山に集合した浪士たちは怪しまれぬよう各々に別れ桜田門を目指します。
桜田門周辺は江戸城に登城する大名行列を見物する人気スポットであり、見物客にお茶や食べ物を提供する茶屋もありました。彦根藩の屋敷から桜田門まではおよそ500mほどの距離です。
襲撃当日は、この時期にしては珍しく雪が降っていたのですが、雪見の客と登城を見物する客がいたため、浪士たちは怪しまれることなく井伊の行列を待つことができたのです。
見物客に紛れていた浪士の前を、彦根藩邸から出てきた井伊家の行列が通ります。警護をする供廻りの者や駕籠持ちなど総勢60名の行列が桜田門を目指し歩を進めていきます。
直弼が乗っている駕籠を確認した浪士たちは、桜田門へと通じる橋の手前で襲い掛かったのです!
手はず通り、直訴を装った森五六郎が行列の先頭に飛び出します。護衛の者が何事かと森五六郎に近づくと、突然抜刀して斬りかかったのです。
咄嗟の出来事に、皆の視線が行列の先頭へと向けられます。異変に気付いた供廻りの者数名が先頭に駆け寄ったとき発砲音が辺りに響きます!これを合図に浪士たちが直弼の駕篭目掛けて突撃したのです。
主君を守ろうとする井伊家家臣との間で壮絶な斬り合いが展開されます。護衛の者たちは、刀の柄が雪で濡れないように柄袋(つかぶくろ)を被せていたため、すぐに刀を抜くことができず対応が遅れてしまったのです。
この機を逃すまいと広岡子之次郎、稲田重蔵、有村次左衛門が駕籠に近づき、中にいた直弼を引きずりだすと、薩摩の有村次左衛門が首を討ち落としました。
これまでの説では駕籠まで到達した広岡子之次郎、稲田重蔵、有村次左衛門が、駕籠に刀や槍を突き刺しこれが致命傷となり首を討たれたとされてきましたが、最近の研究では、直弼には短銃の弾が命中していて身動きのとれない状態であったようです。
駕籠から引きずり出されたときにはすでに虫の息であったためあっけなく首を討たれたようです。
襲撃からわずか数分の出来事でした。10分以上とする説もありますが、襲撃者の数が18人と少数であったことや、彦根藩邸が目と鼻の先にあることから、あまり長い時間がかかっては反撃を受けてしまいます。
実際に彦根藩邸からは応戦するため藩士が現場に駆け付けていますが、それが間に合わないほどの短時間で決着がついたものと思われます。
首を討った有村次左衛門は、刀の先で首を突き刺し高々と掲げ井伊を討ち果たしたことを周囲に知らせます。これを聞いた浪士たちは歓声をあげますが、多くの者が負傷しすでに絶命している者もいました。
襲撃を見届けた関鉄之助と岡部三十郎は京都に向かいます。 金子孫二郎への伝達役であった佐藤鉄三郎は、品川に待機していた金子に事の次第を報告します。
金子と佐藤、有村雄助は薩摩藩と合流するため京都に向かったのです。
■桜田門外の変 その後
井伊直弼の駕篭に到達した広岡子之次郎、稲田重蔵、有村次左衛門のうち稲田重蔵は戦闘中に斬られて討死。
広岡子之次郎は重症を負い現場から逃走します。有村次左衛門が追手に攻撃されるとこれを討ちとりますが、姫路藩邸前で力尽き自刃します。
井伊の首を討った有村次左衛門は、戦闘中に左手人差し指を切り落とされます。首を持ったまま逃走しますが、途中で彦根藩の追手に攻撃され背中も斬られました。遠藤但馬守屋敷付近で力尽き自刃します。
山口辰之介・・・戦闘中に負傷、逃走中に力尽き鯉淵要人に介錯される
鯉淵要人・・・戦闘中に負傷、逃走中に山口辰之介を介錯後に自刃
佐野竹之助・・・戦闘中に負傷、老中脇坂安宅邸に斬奸趣意書を提出後に脇坂邸で絶命
斎藤監物・・・戦闘中に負傷、老中脇坂安宅邸に斬奸趣意書を提出後に細川家の屋敷で絶命
以上の7名が戦闘中もしくは戦闘中の傷がもとで自刃、絶命しました。
森五六郎・・・細川藩邸に斬奸趣意書を提出。幕府による取り調べを受けたのち伝馬町で斬首
大関和七郎・・・細川藩邸に斬奸趣意書を提出。幕府による取り調べを受けたのち伝馬町で斬首
杉山弥一郎・・・細川藩邸に斬奸趣意書を提出。幕府による取り調べを受けたのち伝馬町で斬首
森山繁之介・・・細川藩邸に斬奸趣意書を提出。幕府による取り調べを受けたのち伝馬町で斬首
蓮田市五郎・・・老中脇坂安宅邸に斬奸趣意書を提出。幕府による取り調べを受けたのち伝馬町で斬首
黒澤忠三郎・・・老中脇坂安宅邸に斬奸趣意書を提出。三田藩邸で病没(襲撃時に受けた傷により死亡とする説もあり)
広木松之介・・・現場から逃走後京を目指す。鎌倉で自刃
海後磋磯之介・・・現場から逃走後京を目指す。各地を転々としながら生き延び明治を迎えます。
増子金八・・・現場から逃走後京を目指す。水戸に戻り潜伏を続け明治を迎えます。
高橋多一郎、庄左衛門父子は事の成就を見届けると、予定通り薩摩藩と連絡を取り合うために大坂を目指します。
薩摩藩兵3千が挙兵して京を目指す計画でしたが薩摩藩士の姿は約束の場にありませんでした。
薩摩藩では島津久光を中心とする上層部が出兵に反対していたため兵を送ることができなかったのです。
薩摩藩を待ち続けた高橋父子でしたが、大坂奉行所の役人に見つかったためもはやこれまでと四天王寺境内で自刃します。
襲撃計画の総指揮者であった金子孫二郎は、有村雄助、佐藤鉄三郎とともに薩摩藩と合流すべく京を目指しますが、途中で薩摩藩によって捕縛されます。
金子孫二郎と佐藤鉄三郎は幕府に引き渡され、有村雄助は薩摩に戻されたのちに自刃させられるのです。江戸に送られた金子と佐藤は幕府による取り調べを受けたのちに伝馬町で斬首となります。
襲撃の現場で指揮をとった関鉄之助は挙兵の約束をしていた鳥取藩や薩摩藩と連絡をとろうとしていたようですが、両藩とも約束を反故にしたことを知ると、水戸や越後などを転々としていました。
やがて水戸藩の追手に捕縛されると江戸に送られ、取り調べを受けたのちに伝馬町で斬首となります。
襲撃役となった18人のうち明治まで生き延びたのは海後磋磯之介と増子金八のふたりのみでした。
襲撃を受けた彦根藩では、藩邸の目と鼻の先で当主を討たれたことに衝撃を受けます。護衛していた藩士のうち、その場で討死した者、重症を負い絶命した者が合計8名。負傷して藩邸に運ばれた者が17名にのぼりました。
直弼の首は何とか取り戻したものの、少数の浪士によって藩主が討たれたことは「武門の恥」であり、家督相続をしないまま当主を失ったことでお家断絶の可能性まででてきました。
一方、白昼に江戸城の門前で大老が討たれるという失態を演じた幕府は老中が集まり協議を行います。その結果、井伊大老は負傷するも存命であると嘘の発表をしたのです。
幕府の権威が失墜することを防ぐとともに、彦根藩に相続の手続きをさせお家断絶を回避させることが目的でした。
しかし、白昼の凶行であったため多くの目撃者が存在し、井伊大老が討たれたことはあっという間に江戸市中に広まったのです。
家名断絶を何とか免れた彦根藩では、襲撃時に護衛していた藩士たちの処分を行います。
傷を負った者は切腹、無傷で藩邸に戻ってきた者は、投獄されたのちに全員が斬首となったのです。