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天誅(てんちゅう)

天誅の犠牲者 猿の文吉(ましらのぶんきち)
*天誅の犠牲者 猿の文吉(ましらのぶんきち)

天誅(てんちゅう)とは天に変わって罰を与えるという意味ですが、幕末には天誅の名を借りた暗殺が横行しました。


1860年大老井伊直弼の暗殺(桜田門外の変)、1862年老中安藤信正負傷(坂下門外の変)この二つの事件以降幕府の権威は失墜し、攘夷派が大きな政治力を持つようになります。


1862年7月長州藩が「航海遠略策」を破棄して「破約攘夷」に藩論を転換すると、攘夷派の活動はさらに活発になります。


攘夷派の中から、暴力や暗殺といった手段を使い敵対する勢力(佐幕派、公武合体派)を脅し、排除しようとする者が現れました。


天誅の犠牲になった主な人たち

・島田左近(しまださこん)
井伊直弼の命を受け攘夷派の弾圧を行った長野主膳(ながのしゅぜん)に協力をしたとして、攘夷派の恨みをかい薩摩藩士田中新兵衛(たなかしんべえ)によって惨殺されます。島田の首は四条河原に梟首されました。


・猿の文吉(ましらのぶんきち)
島田左近に協力した岡っ引きです。多額の報奨金を得ていました。高利で金を貸し過酷な取り立てを行い、婦女暴行などの容疑もあったため、天誅の標的となったのです。

土佐の岡田以蔵らの手によって捕縛されますが、刀が穢れるという理由から絞殺されます。全裸にされ肛門から竹串を差され、男根には釘が打ちこまれた状態で磔となりました。


・村山たか(村山加寿江)
井伊直弼の妾もしくは長野主膳の妾。安政の大獄で長野主膳の手先となり攘夷派の探索を行ったことで天誅の標的となる。

女性であったため殺されず、三条河原で三日三晩生き晒しにされました。その後出家。


・多田帯刀(ただたてわき)
村山たか(村山加寿江)の子。母とともに攘夷派の探索を行ったことで天誅の標的となる。岡田以蔵らによって惨殺されました。


・池内大学(いけうちだいがく)
攘夷派として活動するも安政の大獄が始まると自首をして進んで自供をしました。そのため軽い罪で済んだのですが、この行為が裏切りと判断され天誅の標的となり自宅で殺害されます。

池内大学の両耳は切り落とされ、公武合体派の公家 正親町三条実愛と中山忠能の屋敷に脅迫状とともに投げ込まれました。恐怖を感じた二人は官職(議奏)を辞任しました。


・賀川肇(かがわはじめ)
公家 千種有文(ちぐさありふみ)の家臣。和宮降嫁に尽力した千種有文に協力したとして攘夷派の標的になります。

自宅を襲撃されたとき隠れていましたが、子どもが殺されそうになったため、姿を現し殺害されたと言われています。

首と両腕が切り落とされ、首は東本願寺門前に晒され(東本願寺は徳川慶喜の宿)、腕は千種有文と岩倉具視邸に投げ込まれました。