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高杉晋作と功山寺(こうざんじ)挙兵 長州男児の肝っ玉

池田屋事件で吉田稔麿(よしだとしまろ)が憤死、禁門の変で久坂玄瑞(くさかげんずい)と入江九一(いりえくいち)が自刃して、松下村塾四天王の中で生存しているのは高杉晋作(たかすぎしんさく)のみとなります。


高杉は奇兵隊の結成や四カ国連合艦隊との交渉など長州藩の行方を左右する重要な場面で大役を果たし藩の危機を救ってきました。


藩内でも存在感が増す一方で、対立する俗論派からは要注意人物としてマークされるようになります。


幕府が第一次長州征伐の軍勢を整え進軍を開始すると、長州藩内では幕府への恭順を唱える椋梨藤太(むくなしとうた)ら俗論派が実権を握り発言力が強まると、正義派への弾圧を開始します。


不穏な空気を感じた高杉は捕縛される前に萩を脱出して野村望東尼(のむらぼうとうに)の山荘に身を潜めていました。


しかし、俗論派による禁門の変の四参謀斬首や正義派幹部への弾圧を聞くに及び、居ても立っても居られず萩に戻る決心をします。


下関に到着した高杉は「俗論派を倒すのは今しかない!」と諸隊に決起を促します。しかし、禁門の変や四カ国連合艦隊の報復攻撃と相次ぐ敗戦に士気の上がらない諸隊は、この呼びかけに賛同しませんでした。


高杉が創設した奇兵隊はこのとき松下村塾出身の赤根武人(あかねたけと)が総督、山縣狂介(やまがたきょうすけ)のちの山縣有朋が軍監にになっていましたが、高杉の行動は時期尚早であるとして日和見を決め込む始末でした。


特に総督の赤根は俗論派に近づき奇兵隊を含む諸隊を存続させるための折衝を行っていたため高杉の挙兵には猛反対しています。


俗論派打倒を叫ぶ高杉と俗論派との融和を図る赤根!二人の考えは相いれないものでした。


高杉の説得に御楯隊を率いる太田市之進(御堀耕助)が協力を申し出ますが、赤根の妨害工作によりこれもとん挫します。


憤慨した高杉は御楯隊に向かって「赤根は大島郡の土百姓であり、この晋作は毛利家譜代恩顧の士である。晋作の為すべきところと、武人のごとき匹夫の為すべきところを一緒にされては困る」と説き、共に行動するよう促したとされています。


この話しの出自は中原邦平(なかはらくにへい)の忠正公勤王事蹟(ちゅうせいこうきんのうじせき)のようですが、本当に高杉がこのような発言をしたのか?真偽のほどはわかりません。


必死の説得にも諸隊は動く気配がありません。たとえひとりでも決起する覚悟の高杉にようやく味方が現れます。遊撃隊と力士隊です。


来島又兵衛(きじままたべえ)が率いていた遊撃隊は、禁門の変で壊滅的な損害を受けますが、生き残った者たちを石川小五郎がまとめていました。


力士隊はその名の通り力士(相撲取り)の一隊ですが、このときは伊藤俊輔(伊藤博文)が率いていました。


松下村塾で共に学んだ高杉の危機を見過ごすことができなかったのでしょうか?勝ち目のない戦に伊藤は立ち上がります。伊藤は功山寺で高杉とともに決起したことを終生誇りにしていたと言われています。


遊撃隊と力士隊が加わったもののその数は80名ほどしかなく、俗論派を倒せる可能性は極めて低い状況でした。それでも高杉は挙兵したのです。


功山寺の五卿(三条実美、東久世通禧、三条西季知、四条隆謌、壬生基修)と謁見をした高杉は、「是より長州男児の肝っ玉を御目に掛け申す」と挙兵の決意を述べたと言われています。


また、「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と述べたとする説もあります(回天実記)


翌日には下関新地会所(馬関奉行所)を襲いこれを占拠すると、三田尻の海軍局を襲撃して軍艦三隻を手に入れます。


これらの勝利に静観していた諸隊も動き出し、日和見をきめこんでいた奇兵隊の山縣も高杉側につきます。立場を失った総督の赤根武人は行方をくらますのです。


その後、太田・絵堂の戦いで俗論派を打ち破り主導権を握った高杉は藩論を「武備恭順」にまとめます。


俗論派は政権を追われ椋梨藤太は仲間12人と逃亡をはかりますが捕えられ野山獄に投獄されたのち斬首となります。


俗論派の中川 宇右衛門(なかがわうえもん)は切腹を命じられ、小倉源五右衛門(おぐらげんごえもん)、岡本吉之進(おかもときちのしん)は自害をして果てました。


椋梨藤太の次男 中井栄次郎もこのとき捕えられます。中井栄次郎は*井上聞多暗殺未遂事件や*明木権現原の暗殺事件に関与した人物です。投獄後、取調べを受け切腹を命じられました。




*井上聞多暗殺未遂事件・・・英国留学中に四カ国連合艦隊が報復のため長州を攻撃するとの情報を入手した井上聞多と伊藤俊輔は急遽帰国して、高杉晋作とともに連合艦隊との交渉に尽力をします。


第一次長州征伐の軍勢が長州に迫る中、藩内では恭順か武備恭順(表向きは恭順しながら軍備を整える)かをめぐり激しい論争が展開されます。


井上聞多は藩主毛利敬親の前で武備恭順を強固に主張します。結果藩論は武備恭順に決定をしますが、その帰り道井上は刺客(中井栄次郎、児玉愛二郎、周布藤吉)に襲撃されます。


とどめを刺される前に何とか逃げ延びた井上は芋畑で気を失っているところを農夫に救助されます。


自宅に運ばれた聞多は出血多量で虫の息!兄に介錯を頼みますが、これを母が必至に止めているところに医師の所郁太郎(ところいくたろう)が駆け付け手術を行い一命をとりとめました。


所は手術道具を持っていなかったため、焼酎で傷口を消毒して畳針で縫合(50針)したと言われています。





*明木権現原暗殺事件・・・高杉晋作が功山寺で挙兵し、太田・絵堂の戦いで俗論派を討ち破ると、長州藩を掌握していた俗論派勢力に動揺が生じました。


この隙に高杉たち諸隊と和睦をしようとする勢力(鎮静会)が現れます。彼らは諸隊の元に使者(冷泉五郎、桜井三木三、香川半介、江木清治郎)四名を派遣して和平交渉を行います。


しかし、これを聞きつけた俗論派は使者を待ち伏せし、明木権現原付近で襲撃するのです。


冷泉五郎、桜井三木三、香川半介の三名が惨殺され、江木清次郎は重症を負いながらも何とか萩に辿り着き一命をとりとめました。


このときの襲撃犯は7人でそのひとりが中井栄次郎です。襲撃犯7人は捕えられ全員切腹となりました。