第二次長州征伐において幕府は10万を超える大軍を擁しながら長州一藩に勝つことができず、その求心力は急激に低下をしていきます。
もはや幕府に日本の国をまとめる力はなく、翌年には朝廷に政権を返上する大政奉還が行われます。王政復古の大号令が発布され天皇を中心とする新しい政権が誕生しました。
徳川家の処分を巡り新政権内では意見が対立し、不満を持った旧幕臣が「薩摩を討つべし!」と徳川慶喜に迫ります。強行派の意見を抑えることができなくなった慶喜は薩摩討伐の兵を挙げるのです。
鳥羽街道を北上する旧幕府軍と京への進行を阻止しようとする薩摩藩との間に戦端が開かれます。
鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍15000に対し薩摩を中心とする新政府軍は5000ほどであり、3倍の兵力を擁する旧幕府軍が有利な状況でした。
また、この頃には旧幕府軍にも新式の銃器が導入されており、薩長に見劣りしない装備をしていたのです。
しかし、いざ戦が始まると兵力で劣る新政府軍に翻弄されしだいに劣性に立たされます。指揮官の能力の差が結果となってあらわれたのです。
新選組や会津など歴戦の将兵たちが抜刀して斬り込み一時押し返しますが、訓練のいきとどいた薩長の兵は次第に旧幕府軍を追い詰めます。
さらに、旧幕府軍に追い打ちをかけたのが錦旗(きんき)の出現でした。錦旗は錦の御旗(にしきのみはた)とも呼ばれ天皇の軍(官軍)の象徴でした。
新政府の岩倉具視(いわくらともみ)は旧幕府軍との戦に備え錦旗の作成を密かに進めていたのです。
錦旗といっても使用されたのは遥か昔で(鎌倉時代に出現したといわれています)幕末当時実物の錦旗を見た者は誰もいませんでした。
そのため、岩倉は国学者の玉松操(たままつみさお)に錦旗のデザインを依頼します。
岩倉は薩摩の大久保利通(おおくぼとしみち)と長州の品川弥二郎(しながわやじろう)に計画を打ち明け、玉松のデザインをもとに錦旗を作成するよう命じたのです。
大久保が材料を調達し、品川が長州に戻り錦旗の制作を行ったとされています。完成した錦旗は厳重に保管され一部は朝廷に納められました。このとき作成された錦旗が鳥羽・伏見の戦場で掲げられたのです。
突如戦場に掲げられた異様な旗に目を奪われた兵士たちは、それが錦旗だと知らされると大いに慌てます。
旧幕府軍は皆一様に驚き、朝敵になることを恐れ混乱したといわれています。錦旗を見た鳥取藩、淀藩、津藩は新政府軍に寝返り旧幕府軍は総崩れとなったのです。