楫取寿(寿子)兄松陰の形見の短刀を新井領一郎に託す!
初代群馬県令となった楫取素彦(かとりもとひこ)は、新政府のスローガンである富国強兵、殖産興業に基づき群馬県政を指導していきます。
教育者であった楫取は、日本の国力をあげるには人材の育成が不可欠であり、教育の普及を優先する必要があると感じていました。
そのため、将来の日本を担う人物を育てるための教育の普及を県政の柱のひとつに掲げます。
県民皆教育の実現を目指し貧しい家庭には授業料免除などの政策をとりました。また、女性の教育にも力を入れ、群馬県女学校を設立しています。楫取の尽力により群馬県の就学率は全国二位となったのです。
教育の普及とともに楫取が精力的にとりくんだことが殖産興業です。幕末から明治にかけて日本の輸出品のトップは生糸でした。
日本の近代化を推し進めるには莫大な資金が必要であり、生糸の輸出量を増やし利益を上げることが新政府の重要な政策であったのです。
群馬県にはすでに官営の富岡製糸場が建設され(1872年)操業していました。楫取は群馬県権令に就任すると、群馬県産生糸の輸出量を増やすために各方面に働きかけ手だてを講じています。
そのひとつが生糸の直輸出でした。当時の日本では外国人商人を介して生糸を輸出していたのですが、高額な手数料が利益を減らしていたのです。
直接外国と取引を行うことができれば利益は大幅に増えます。しかし、そのためには現地の業者と交渉を行い契約を結ぶ必要ありました。
水沼村出身で洋式器械製糸所を設立した星野長太郎は、アメリカでの販路拡大と直輸出の必要性を考慮し弟の新井領一郎を渡米させる決断をします。
それを聞いた楫取は費用の一部を援助し、関係各所に働きかけ渡航の支援を約束するのです。
渡米する前に星野、新井兄弟は楫取の元を訪問し、「アメリカで必ず成功してみせます」との決意を述べます。それを聞いた楫取の妻寿は、松陰の形見の短刀を領一郎に託します。
寿の眼には高い志を持ちアメリカに渡る若者と松陰が重なって見えたのかもしれません。密航に失敗しアメリカ行きを成し遂げられなかった兄の想いを領一郎に託したのでしょう。
1876年領一郎は仲間とともに横浜から蒸気船に乗り旅立ちます。アメリカに到着した領一郎は言葉や慣習の違いに苦労しながらも、地道に営業活動を行い実績を積み上げていきます。
10年後にはアメリカとの間の生糸の取引量を大幅に増加させ成功を収めたのです。日米貿易の先駆者となった領一郎はアメリカ絹業協会取締役にも選ばれました。
生糸貿易の拡大や日本文化の普及に貢献したことが評価され勲六等瑞宝章が贈られます。領一郎は1939年にアメリカで亡くなりますが、松陰の短刀は現在でも新井家で所蔵しているそうです。