楫取寿(かとりひさ)仏教(浄土真宗)への信仰心と死
楫取素彦(かとりもとひこ)は1872年に足柄県に出仕することになり、家族を残し単身で上京しました。
1874年には熊谷県権令(副知事)となりますが、この頃になると家族を呼び寄せ一緒に生活をするようになります。
楫取寿(かとりひさ)は、母の滝が浄土真宗に深く帰依していた影響を受け、自身も仏教を深く信仰していました。
幕末という激動の時代!寿は念仏を唱え仏の教えを信じることで様々な困難を乗り越えてきたのです。
寿は二条窪で自給自足の隠遁生活を送っているときも小さなお堂を建て、月2回法話の会を開き村人とともに読経をしています。
しかし、新しい赴任先である群馬には浄土真宗のお寺が少なく布教活動も十分ではなかったのです。
群馬県令として重責を担う夫をサポートする寿は、相次ぐ士族の反乱や急激な世の中の変化に不安を感じている人たちを仏教の教えで救おうと考えます。
当時の群馬県民は、上州人気質といって気性が荒く博打好きという面を持っていました。そんな県民性を仏教の力で穏やかにしたいと思ったのでしょう。寿は素彦と相談して浄土真宗のお寺を建立するための活動を行います。
浄土真宗西本願寺二十一世 明如上人(みょうにょしょうにん)に群馬での布教の必要性を訴えます。
明如上人は山口から小野島行薫(おのじまぎようくん)を派遣して布教活動を開始しました。
小野島行薫は「酬恩社教会」を設立して群馬県内に説教所を置きます。寿も布教活動を積極的に支援したことで、浄土真宗を信仰する人が徐々に増えていったのです。
寿と素彦の強い後押しもあり県庁の近くにある説教所が清光寺となり、その後西蓮寺、蓮照寺、西福寺も建立されました。
浄土真宗の布教に力を注いだ寿ですが、1874年ごろから中風(ちゅうふう)を患い、手足のしびれを感じるようになります。
妹の美和子(文)も寿を心配して楫取家を訪れています。寿は外国人医師の電気治療なども受けますが、症状はあまり改善されなかったようです。
1877年になると寿は治療のため群馬を離れ東京で暮らすようになります。東京には次男の楫取道明(久米次郎)が住んでいました。
道明夫婦が母の世話をしていたようですが、美和子も度々上京して看病をしています。
1880年になると風邪をこじらせ肋膜炎(ろくまくえん)を併発して体調が悪化します。忙しい合間を縫って素彦も寿を見舞いますが、病状は回復しませんでした。
年が明けるとさらに病状が悪化するのですが、寿は素彦に連絡することを許しませんでした。国事に奔走する夫の邪魔をしたくなかったのでしょう。
1881年1月30日、寿は身支度を整え見守る親族や看病をしてくれた人たちにお礼を述べたあと、端座して念仏を唱えながら43年の生涯を終えました。