平清盛・・・病死 平時子(清盛の継室)・・・壇ノ浦で入水 ー清盛の兄弟ー 家盛・・・病死 経盛・・・壇ノ浦で入水 教盛・・・壇ノ浦で入水 頼盛・・・都落ちには帯同せず頼朝の庇護
平重衡(たいらのしげひら)は平清盛の五男として1157年に誕生します。母は平時子、母を同じくする兄弟に宗盛、知盛、徳子 母違いの兄弟に重盛、基盛、盛子、完子などがいます。 *平
平教経(たいらののりつね)は清盛の弟教盛の次男で清盛の甥にあたります。高位高官を独占して貴族化する平氏の中にあって教経は都いちの弓の名手として名を馳せました。平家一門の中で勇将
鹿ケ谷の陰謀は1177年平氏打倒を企てた後白河法皇の近臣たちが清盛によって処罰された一連の事件です。 保元、平治の乱を経て朝廷内で実力をつけた清盛は1167年に太政大臣に登りつ
平知盛(たいらのとももり)は、平清盛の四男で母は平時子、母を同じくする兄弟に宗盛、重衡、徳子がいます。子供は知章、増盛、知忠、知宗、中納言局。 *平知盛 知盛は父である清盛の軍
平宗盛は、平清盛の三男で母は平時子、母を同じくする兄弟に知盛、重衡、徳子がいます。子供は清宗、能宗の他三人。 宗盛は清盛の三男であったことから、家督を継ぐ身ではなかったのでが、
平重盛は1138年 平清盛の嫡男として誕生しました。母は高階基章の娘、母を同じくする弟に基盛 母違いの弟に宗盛、知盛、重衡 妹に徳子、盛子、完子などがいます。子供は嫡男である維
平教盛(たいらののりもり)は平忠盛の四男で母は藤原家隆の娘、母違いの兄に清盛、家盛、経盛 母違いの弟に頼盛、忠度がいる。子供は通盛、教経、業盛、仲快、娘は教子他数人がいたようで
平忠盛の六男で母は藤原為忠の娘、母違いの兄に清盛、家盛、経盛、教盛、頼盛がいます。子供は忠行。 兄、清盛とは26歳も歳が離れていて、清盛の嫡男重盛より4歳年下になります。忠度は
*保元の乱 相関図 天皇家の皇位継承と藤原摂関家の権力争いに端を発した争乱「保元の乱」が1156年に勃発します。天皇家では崇徳上皇と後白河天皇の対立が水面下でおこなわれ、藤原
*崇徳天皇 顕仁親王(崇徳天皇)は1119年鳥羽天皇と中宮藤原璋子(待賢門院)の間に生まれました。しかし、父親は鳥羽天皇ではなく白河院であるとする説が根強くあり、崇徳天皇に対
*鳥羽天皇 鳥羽天皇は1103年 父堀河天皇と母藤原苡子の間に誕生しました。誕生して間もなく母 苡子が他界し、父 堀河天皇も1107年に崩御したため、わずか5歳で即位し74代
平経盛は平忠盛の三男で母は源信雅の娘、母違いの兄に清盛、家盛、母違いの弟に教盛、頼盛、忠度がいる。子供は経正、経兼、広盛、経俊、経光、敦盛。清盛の弟としてよりも、敦盛の父として
平時忠は中級貴族 平時信の嫡子として1127年に誕生しました。同じ母を持つ姉が清盛の妻となった平時子で、母違いの妹には後白河上皇の子(高倉天皇)を生んだ平滋子(建春門院)、母違
平頼盛は、平忠盛の五男で母は藤原宗子(池禅尼)、母を同じくする兄に家盛 母違いの兄弟に清盛、経盛、教盛、忠度がいる。 母の藤原宗子(池禅尼)は忠盛の継室であったため兄の家盛同様
平家盛は、平忠盛の次男で母は藤原宗子(池禅尼)、母を同じくする弟に頼盛 母違いの兄弟に清盛、経盛、教盛、忠度がいる。 家盛の生まれた年については確かな史料が存在しないのですが、
1147年6月15日祇園社(八坂神社)で行われた奉納祈願に参加した平清盛は大願成就を祈り田楽を奉納します。清盛の家臣が武器を帯びたまま参詣しようとしたところを祇園社の神人に咎め
清盛の最初の妻は高階基章の娘でふたりの間には嫡子である重盛と次男基盛が生まれています。さらに清盛は同じ平家である平時子を妻に迎えます。 高階基章の娘が正室、平時子が継室というこ
源義朝は1123年清和源氏(河内源氏)の棟梁源為義の嫡男として誕生します。母は中~下級貴族藤原忠清の娘で、終生のライバルとなる平清盛より5歳年下ということになります。 義朝には
武家として初めて内裏への昇殿(源義家は院の昇殿)を許された平忠盛ですが、その異例の出世を妬む公家たちの標的にされます。 当時の貴族社会では、新たに昇殿を許された新参者に対してイ
藤原家成は藤原家保の三男として1107年に誕生しました。家成の家系は「諸大夫の家」と呼ばれる中~下級貴族でしたが、祖父藤原顕季が白河上皇の側近となり正三位・修理大夫に昇進します
平清盛を産んだ母は出産後数年で病没したため清盛には母を同じくする兄弟がいません。 父 忠盛が他の女性に産ませた男子のうち知られているのは池禅尼の子である家盛と頼盛、藤原家隆の娘
平清盛の母については詳しく記されている史料がなく清盛を生んで間もなく病没してしまったとされています。幼い清盛を育てたのは藤原宗兼の娘で忠盛の後妻となった藤原宗子(池禅尼)でした
平安時代は天皇を中心とする貴族が政治を行っていました。貴族の中でも藤原氏は天皇の外戚として巨大な権力を持っていました。 外戚とは、自らの娘を天皇の女御とし、生まれた子供を天皇に
祇園女御(ぎおんのにょうご)は、白河上皇の寵愛を受けた女性で生没年や出自は不明です。 一部の資料には清盛の母、清盛の育ての親とするものもありますが、信用度は低いとされています。
平清盛の父は忠盛ではなく白河上皇であるとする記述が一部の史料に存在します。 実の父親はどちらなのか?本当のところはわかりませんが、忠盛が武士で始めて昇殿を許され異例の出世をした
平忠盛は1096年伊勢平氏の棟梁である正盛の子として生まれます。父正盛が源義親の乱を鎮圧し白河上皇の信頼を得たように、忠盛も海賊を退治してその武名を上げます。 忠盛は得長寿院を
*平清盛坐像 平清盛は1118年平忠盛の子として誕生します。清盛の一族は桓武平氏の系統に属し、伊勢で勢力を持っていたことから伊勢平氏と呼ばれました。 清盛の誕生した当時は、天