祇園闘乱事件
1147年6月15日祇園社(八坂神社)で行われた奉納祈願に参加した平清盛は大願成就を祈り田楽を奉納します。清盛の家臣が武器を帯びたまま参詣しようとしたところを祇園社の神人に咎められ小競り合いとなるのですが、
このとき清盛の家臣が社殿に向かい矢を放ち、そのうちの何本かが社殿や神人に当たってしまったのです。その場は何とかおさまりましたが、後日祇園社と関係の深い延暦寺が鳥羽上皇の元へ参内し忠盛、清盛親子の官位剥奪と配流を訴えます。
忠盛、清盛親子は矢を放った家臣を検非違使に引渡し事をおさめようとしますが、怒り心頭の延暦寺側は神輿(みこし)を担ぎだし強訴(ごうそ)の動きを見せます。
強訴(ごうそ)とは寺社勢力が神仏の権威を背景に自らの意見を強行に主張する集団行為です。一般的には僧や神人が神輿を担ぎ民衆を巻き込みながら、自らの主張を大声で叫び圧力を加えていきます。
延暦寺側は祇園社と日吉社の神輿を担ぎ京に入ろうとしますが、鳥羽上皇が派遣した武士(源為義を中心とする源氏と平氏)らがこれを防ぎます。
鳥羽上皇は摂政 藤原忠通、内大臣 藤原頼長ら公卿を召集して忠盛、清盛親子の処分を協議するのですが、結果は銅三十斤という軽微な罰金刑が言い渡されました。
公卿の中には重い刑罰を望むものもいたようですが、鳥羽上皇は忠盛、清盛親子の軍事力、経済力を今後も活用いきたいと考え軽い刑で済ませたのです。
この処分に納得のいかない延暦寺でしたが、穏健派と強硬派の対立が表面化し内部抗争へと発展してしまいます。一時は座主が延暦寺から追われる騒ぎとなりますが、上皇が強硬な態度を示したため強硬派も折れこの騒ぎは収束しました。
この祇園闘乱事件では、天皇をしのぐ院(上皇、法皇)の権力と寺社勢力の強訴を阻止した武家の武力が大きいことを世に知らしめた事件でした。