平家盛
平家盛は、平忠盛の次男で母は藤原宗子(池禅尼)、母を同じくする弟に頼盛 母違いの兄弟に清盛、経盛、教盛、忠度がいる。
家盛の生まれた年については確かな史料が存在しないのですが、1127年前後の生まれであったようです。
母 宗子は忠盛の継室であったことから、幼いころより優遇され嫡男である清盛と同じように育てられました。
家盛と清盛の関係がどのようであったのか、記録が残っていないので確かめる術はありませんが、母を同じくする弟の頼盛は清盛と距離を置いていることから、家盛と清盛も仲の良い兄弟ではなかったのかも知れません。
祇園闘乱事件を起こし朝廷内での立場が一時危うくなった清盛にかわり、家盛が重んじられるようになります。
家盛も積極的に政治活動を行うのですが、生来あまり体が丈夫ではなかったようで、1149年鳥羽院の熊野参詣に同行中、病が悪化し帰らぬ人となります(享年23?)
父 忠盛と母 宗子(池禅尼)の悲しみはとても深く、後年 平治の乱で捕らえられた源頼朝(当時13歳)の姿が幼い頃の家盛に瓜二つだと聞いた池禅尼は、頼朝の助命を清盛に嘆願します。
平家を支えてきた継母の懇願に困り果てた清盛は渋々頼朝の命を助け、伊国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流としたのです。
頼朝の命を救ったことで平家は滅亡してしまうのですが、平家一門の多くが戦死や処刑をされる中、頼朝は自分の命を救ってくれた恩人池禅尼の息子である頼盛を助命するのです。